楽しいニュースをまとめてみました。

300年の歴史を持つ人形浄瑠璃、文楽。1体の人形を主(おも)遣い、左遣い、足遣いの3人で遣い、語りを担う太夫と三味線とでドラマティックな世界を形作る芸能だ。東京での拠点として国立劇場で上演されているが、劇場は建て替えのため、2023年秋に閉場。東京での文楽公演は、今月始まった1年間の「初代国立劇場さよなら公演」のあとは、都内近郊の複数の劇場で行われることとなる。今こそ文楽を知ってほしいとの思いから、文楽の芸を今に伝える技芸員のインタビューをシリーズでお届け。第一回目として、人形遣いで人間国宝の吉田和生さん(75)にご登場いただく。

傾城・宮城野を遣って

女方を中心に立役もこなす吉田和生さん。現在上演中の令和4年9月文楽公演『碁太平記白石噺』では、家のために身売りしたあと、生き別れになった妹との再会によって父が殺され母も死んだことを知り敵討ちを誓い合う、傾城・宮城野を遣っている。

『碁太平記白石噺』宮城野を遣う吉田和生(左)と、おのぶを遣う吉田一輔  提供:国立劇場

『碁太平記白石噺』宮城野を遣う吉田和生(左)と、おのぶを遣う吉田一輔  提供:国立劇場

「妹から両親が死んだことを聞かされての嘆きや悲しみから、その後の物語に繋がる仇討ちへの切り替えに、気を遣いますね。それに、宮城野や阿古屋や夕霧などの傾城の役は、かしらも打ち掛けもとても重いんです」

劇の前半では、妹のおのぶ達の会話を聞いている宮城野。あまり動きがないにも関わらず、和生が遣う人形には生気が満ち、気品があふれているから不思議だ。

「生き別れになって顔がわからない妹が来て、「奥州」という言葉を聞いて「?」と思ったり訛りに反応したり、ところどころ動いてはいます。自分のセリフの時だけ動いても芝居になりませんから。と言ってやり過ぎると、おのぶ達の演技の邪魔になってしまうのですが。品とか色気とかそういうものは、各自が持っているものや積み上げてきたものなのでしょうね。うちの弟子は30代半ばで体力バリバリですが、宮城野のかしらを1時間持っていられるかというと難しい。若い頃、先輩達を見て『70、80代でどうしてあの人形を持てるのだろう』と思っていたけれど、今、僕は1時間持つことができています。弟子にもよく言うのですが、足遣い10年、左遣い10年の修業を経て主遣いになるにあたっては、足をやる時も浄瑠璃をきちんと聴きながら足取りを覚え、左遣いになれば人形全体の動きや相手役との絡みをしっかり仕込んでおかなければ、主遣いになった時にすっと動けない。実際、50、60歳になって初役をもらう時、足や左の経験がない役の場合はものすごく神経を遣います」

(左)宮城野のかしら (右)重いかしらを支え続けたため、手の平には大きなマメが

(左)宮城野のかしら (右)重いかしらを支え続けたため、手の平には大きなマメが

長い修業の末に主遣いとなり、大きな役をこなすようになってしばらくすると、今度は年齢という壁が立ちはだかる。

「大体45〜50歳ごろから段々良い役が付くようになるわけですが、体力・気力としては55〜65歳くらいが良い頃でしょうね。その間は突っ走っているけれど、その後は、体力が落ちていく。うちの師匠(故・吉田文雀)もよく言ってましたね、『元気であの役ほしい、この役やりたいと思った時には役がもらえず、あっちが痛いこっちが痛いと言っていると、あれ遣え、これ遣え、って、なあ』と(笑)。だから、どれだけ自分の水準が保てるか、ですよね」

なお、今回のおのぶは後輩の吉田一輔が勤めているが、和生さんが宮城野を初役で遣った時は師匠の文雀がおのぶを遣った。

「普通は逆です。師匠の体力的なこともあったでしょう。ただ、歳を重ねてからおのぶをやること自体はあるんですよ。文雀師匠の師匠である(吉田)文五郎師匠がやったことがあるそうで、うちの師匠は『うちのおやじさんのおのぶは可愛くてよかったで』と話していました。そういう印象があって『自分も歳を取ってきたから、よっしゃ、やったろ』ということなわけですから、宮城野を遣うこちらは妹役に食われないようにしなくてはと必死でしたね(笑)」

≫ひょんなことから文楽へ

 

ひょんなことから文楽へ

和生さんは1947年7月、愛媛県生まれ。文楽を見たことのない若者がこの世界に入ったのは、ひょんな経緯からだった。

「僕は高校の時、1年休学しているんです。それがなければこの仕事に入らなかったと思います。一応、大学に進学するつもりだったのだけれど、高校3年の1学期の中間テストの時、夜になると熱が出るので病院に行ったら、『肺に影があるから1年間休学するか通学しながら治療するか』と言われて、担任の先生に相談したら、『今の1年は大きいかも知れないけど、50歳と55歳は変わらへんで』と。『なるほど、じゃあ休みます』ということで、その間に勉強でもしようと思いつつ、本が好きだったから昼夜逆転で滅多矢鱈に乱読した中に、松田権六の『漆のはなし』という本があって、作家は無理でも職人ならいけるかな、などと考えて。担任の先生も『大学は、大学を出ないと就けない職業になりたい人間と、大学4年間かけて何をしようか考える人間が行くものだ』。僕はどちらでもないなと考えたんです」

以来、伝統工芸関係の仕事を色々当たっていた和生さんに転機が訪れたのは、高校を卒業した3月のこと。

「京都へ博物館の国宝修理所を見学に行く時、文楽人形のかしらを彫る大江巳之助さんに「帰りに寄ってもいいですか」とお手紙を書いて許可をもらって。僕は『どんなもんか見てみようかな?』くらいの感覚でしたが、大江さんからは『文楽のかしらは90%わしが作っているから、今来ても舞台で使うかしらは彫られへんぞ』と言われました。それで家に帰って10日くらい経った頃だったか、大江さんからお手紙が来て大阪にかつてあった朝日座という劇場の文楽の4月公演に誘われたんです。こちらはふらふら遊んでいたからちょうどいいと思って大阪に行き、そこで、文楽の中でかしらの担当をしていた師匠を紹介されました。文楽のことは知っていたけれど生で観たのはその時が初めて。でも、実は特別に感動したというほどでもなかった(笑)」

さらに奮っているのは、その後の展開だ。

「師匠に『夜、泊まるところは?』と聞かれて決めていないと言ったら『うち来るか』と一晩泊めてもらい、翌日、朝ごはんを食べながら『どないする?』と聞かれ、『やります』。一宿一飯の恩義を感じたわけでもないんだけど、何故かそう答えて、その日から楽屋に行って黒衣として手伝いを始めたんです。幕を開けるなどの仕事をしながら一ヶ月ほどしたら、師匠が『お前、家に知らせた?』『いや何も』『こりゃ1回帰らな、あかんな』。あとで田舎の親戚に聞いたら、捜索願を出そうかという話になっていたそうです(笑)」

師匠と一緒に紅テントを観た!

そんなつもりもなく文楽に入ったことを「間違えて入った」と称する和生さん。以来50年以上、文楽の世界で修業を続けてきたことになる。そんな和生さんが、この道でやっていく真の覚悟がついたのは、1996年12月の『仮名手本忠臣蔵』四段目の塩冶判官を遣った時。判官とは浅野内匠頭のことだが、この四段目で切腹する場面は“通さん場”と呼ばれ、客席の出入りも許されず、静寂の中、厳粛な雰囲気で進行する。

「うちの師匠には『(切腹する時の)判官は、太夫の語りもなくなって自分一人で間を持たなあかんから、絶対早くなる。そうすると急いで切腹しているようだし、かと言ってゆっくりやると切腹を引き伸ばしているように見えるから、よく考えてつくらなあかん』と言われていたのですが、2日目くらいかな、大星由良之助(大石内蔵助のこと)役を遣っていた(初代)吉田玉男さんから『ちょっと長くないか』と言われて。とはいえどこを削ったらいいかもわからないまま自分なりにやっていたのですが、その後は何も言われなかったので、まあまあ、それなりになんとかなったのかな、と。うちの師匠は何も言わなかったけれど」

改めて、文雀師匠との思い出を聞いてみた。

「うちの師匠は引き出しを沢山持っていないと、ということで演劇に限らず色々なものを観ていて、僕も一緒になって楽しんでいました。唐十郎さんの紅テントを二人で観に行ったことも。何かの用事で東京に行って1日休みができたら、師匠が『和生、明日どないすんねん』『紅テント行きます』『わしも行くわ』。暑かったけど、師匠と一緒にテントの周りの行列に並んで。終わってから師匠は『人間のすることは今も昔も変わらへんなあ』と言っていましたね。『子午線の祀り』を観た時は、知盛役の嵐圭史さんがずば抜けて良い、ということで師匠と意見が一致しました。僕一人でもミュージカルから、新劇、踊りまで、色々と観てきましたし、今でも時々観に行きます。師匠は随分変わった人でしたが、僕も変わっていたので、師匠のウンチクが面白くて、ちっとも苦にならずついていきました。うまく育ててもらいましたね。生き字引みたいな人で、何を聞いても『あれは何年』とすぐ出てくる。だから、僕は舞台の出来事を書いておこうと思ったこともあったけれど『いや、おやじさんに聞けばすぐ出てくるから、いいや』と、結局、書かずじまいで(笑)」

そんな和生さんは、今、師匠がしてくれたのと同じように、折りに触れて弟子に様々な話をしているという。

「今も、弟子に“孔明”というかしらの由来として三国志の諸葛孔明の話をしていたんです。『碁太平記白石噺』にしても由比正雪の事件などの史実とフィクションがないまぜになっている。具体的にどうこうということでなくても、そういう作品の裏のことを知っていないと本当には理解できないんです。今は稽古にも録画や録音を使うことができて、それはそれで便利ですけど、昔は人に習いに行けば、『今はこのやり方だけれど誰それさんはこういうやり方をしていたよ』『昔はこうやってたね』なんて話を2つ3つ聞くことができた。だから僕は、どこまで理解しているかわからないけど、なるべく色々なことを喋るようにしています」

≫「技芸員への3つの質問」

 

「技芸員への3つの質問」

【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード

僕や、ほぼ同期の桐竹勘十郎さん、(二代目)吉田玉男さんが入門した時、10年くらい人が入っていなかったんです。ということは、その時足遣いをやっていた先輩達は皆、早く足を卒業して左遣いになりたくてたまらない。なので横幕を引いたり人形遣いの介錯をしたりしていると「足持ってみるか?」とやらせてくれて。「まだちょっと無理か」と言われることもあったけれど、うまくできると、「明日からやれ」と言われて、足をやっていた先輩はこれ幸いとばかりに左遣いの方に回っていました(笑)。そういうふうに、いきなり来るんです。入門してだいぶ経ってからですが、(『菅原伝授手習鑑』の大役の)松王丸の足を初めてやった時も、突然、「やるか」と。先代の(豊松)清十郎さんが主遣いで、うちの師匠が左。僕が足をやったら、周囲の反応はまあまあ良かったけれど、うちのおやじさんは一言、「頭で覚えた足やな」(笑)。全てそういう感じでした。
怒られない日はなかったけれど、吉田玉昇さんという人形遣いさんから「和生、他の人が怒られている時、『怒られているわ』ではなく、なんで怒られているかちゃんと聞いておかなあかんねんで」と言われたのも、忘れられません。

昭和43年2月。左から、現桐竹勘十郎、吉田和生、吉田昇二郎(のちに退座)

昭和43年2月。左から、現桐竹勘十郎、吉田和生、吉田昇二郎(のちに退座)

昭和47年4月。『鼠のそうし』出演時

昭和47年4月。『鼠のそうし』出演時

【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること

初めて国立劇場に来た時は、本当に立派で、大きくてきれいで、感動しました。僕は芸歴と劇場の歴史がほぼ同じなので、最近はどっしりと風格が出てきたなと思っていたんだけれど。劇場内の場所では、今遣っている一番奥の楽屋が、先代の玉男さんとうちのおやじさんとで使っていたところで、とにかく二人ともお芝居の話ばかりしていたから思い出深いですね。若いうちに貴重なお話を聞けたのはよかったです。
初代の劇場は正倉院を模した校倉造で、すぐそばの武道館は夢殿がモデル。次の劇場がどのような形になるのかわからないけれど、日本古来の建物の形を参考にするのは、すごく良いと思うんですよね。

【その3】オフの過ごし方

今はコロナで飛び回ることができないけれど、昔はあちこち出かけていましたね。天気予報で雪だと見れば、雪化粧の金閣寺を見に行きましたし、美術館には今も昔もよく行っています。

取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)