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ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(通称:MET)で上演される世界最高峰のオペラを、全国各地の映画館で上映する「METライブビューイング」。世界のトップ歌手たちの夢の競演、最高のオーケストラ、刺激的な演出の数々を、リーズナブルな価格で鑑賞できる画期的なオペラ・エンターテインメントだ。その2022-23シーズン第9作目として、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』[新演出]が、2023年6月30日(金)~7月6日(木)、各地で上映される(※東劇のみ、7月13日まで2週間上映)。

2000人もの女性を征服した伝説の放蕩者にして大貴族ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)の滅亡が劇的な音楽で描かれ、19世紀ロマン派の扉を開いたとされる傑作オペラ。長身美声と憑かれたような演技で舞台を支配するペーター・マッテイ(ドン・ジョヴァンニ役)や、甘く陰影に富んだ声で世界を魅了するフェデリカ・ロンバルディ(ドンナ・アンナ役)をはじめ、「今が聴きどき」の歌手たちが次々に登場する。指揮を振るのは、現代最高のコントラルト歌手でありながら気鋭のコンダクターとして活躍するナタリー・シュトゥッツマンで、本作がMETデビューとなる。そして演出を手掛けるのが、いま世界で最も注目を集める鬼才、イヴォ・ヴァン・ホーヴェだ。日本でもお馴染みのホーヴェだがMETには初お目見え。そんな彼に、このほど、演劇ジャーナリストの伊達なつめ氏が話を聞いた。

【動画】華麗なるプレイボーイの劇的な末路!《ドン・ジョヴァンニ》予告

 

―― 演出家としてのキャリア初期のころからニューヨークでも仕事をしてこられましたが、METについてはどんな印象を持っていますか。

1997年にニューヨーク・シアターワークショップに招かれたのが最初で、その後十数年間はほとんどニューヨークに住んでいるような状態でしたが、METについては、何度かゲネプロを観に行ったくらいで、当時はよく知りませんでした。ですから今回のオファーは意外でしたが、なんと言っても、ともに世界最高峰のオペラハウスである、METと共同制作のパリ・オペラ座から声をかけてもらえたのですから、とてもうれしかったですよ。でも「ワオ!ワオ!」と舞い上がってばかりもいられないので(笑)、意味のある演出を届けなければと、身が引き締まる想いでした。

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

というのも、私には『ドン・ジョヴァンニ』がいかに難しい作品かが、よくわかっていたからです。音楽は実に美しいのですが、この作品には、解決しなければならない演出上の問題が山ほどあるんです。これまで観てきたなかでは、エクサン・プロヴァンスでのピーター・ブルック、ザルツブルクでの〝私のアイドル〟であるパトリス・シェロー、パリ・オペラ座でのミヒャエル・ハネケ。この3人の演出家によるプロダクションが私のお気に入りなんですが、私は私自身の『ドン・ジョヴァンニ』を創らなければなりません。

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

幸い、その手がかりはすぐに見つかりました。実は私がそれまで知らなかっただけのことなんですが、この作品には「罰せられた犯罪者(※注:和訳では「罰せられた放蕩者」とされていることが多い)」という副題が付いているのです。つまり、モーツァルトはこの男を、他者を身体的に攻撃するような男ととらえていたわけです。確かに、始まりの10分間に起こることだけをみても、まずオープニングは非常に暗い音から始まります。次に女性の叫び声が聞こえ、実際にレイプされそうになった女性が逃げてくると、彼女の父親が駆けつけますが、男にあっけなく殺されてしまいます。暴行と殺人。ドン・ジョヴァンニは、正真正銘の悪人なんですよ。「ロマンティックで女性なら誰もがみんな恋してしまうような男」といったイメージは19世紀以降に生まれたもので、モーツァルトが描こうとしたこととは違うのです。そんな男が最後に地獄に墜ちて行くことで、世の中がやっと浄化される、という風に私は考えています。

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

―― とはいえ音楽的にも悲劇と喜劇、双方の側面があるとされる作品ですが、ドン・ジョヴァンニには愛嬌の欠片もないのでしょうか。

まったくない、というわけではありません。たとえばツェルリーナとの間には、実際にお互いに惹かれ合うようなところは、残してあるつもりです。時に愛が生まれることはあるのですが、残念なことにドン・ジョヴァンニには、芽生えた愛を育てる、ということができません。女性から取れるだけ取って、何も返さない男なのです。モーツァルトの音楽には、つねにそうした暗い影のようなものが存在しているのを感じるのですが、この暗さをドン・ジョヴァンニ役のペーター・マッテイに納得してもらうのには、少し時間がかかりました。

イヴォ・ヴァン・ホーヴェ、ペーター・マッテイら(リハーサル風景) ⒞Jonathan Tichler/Metropolitan Opera

イヴォ・ヴァン・ホーヴェ、ペーター・マッテイら(リハーサル風景) ⒞Jonathan Tichler/Metropolitan Opera

―― どのように説得されたのですか。

最初のうち難しかったのは、この暗さを受け入れてもらうことでした。実際に性的虐待や暴行が行われるということについて、マッテイがそれを受け入れるまでに、そうですね、一日半くらいかかったでしょうか。彼からは今回の演出で最終的に何を求めているのか、その情報がほしいと言われ、私がモーツァルトの音楽からイメージすることを説明してゆくことで理解を得られて、結果として最高の同志になることができました。マッテイは言うまでもなく経験豊富な素晴らしい歌手で、ドン・ジョヴァンニについても、私のベスト3のうちのピーター・ブルック版とミヒャエル・ハネケ版の2作に主演しています。今回も新しいものを創っていくということに対して、非常に貪欲に取り組んでくれました。実際に彼が歌うのを聴いていて、私はパリ公演の際には思い至らなかった、この作品のさまざまな要素に気づくことができました。オペラを過去の遺物のように言う人もいますが、ほんとうに今まさに生きている芸術なのだと、彼のドン・ジョヴァンニに接して改めて実感したところです。

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

―― 確かに全体にとてもリアルな演出で、騎士長も石像ではなく、死んだ時のままの姿で登場しますね。

オペラには「こうしなければいけない」という、妙なしきたりのようなものがありますが、私はそうしたことには、一切耳を傾けません。すべてのオペラに関して、これは昨日書き上がった新作で、自分はその最初の演出を担うのだ、という姿勢で臨んでいます。どんな古典であろうとまず音楽を聴き、台本と歌詞を読んで、イメージを創っていきます。その作業によって、ドン・ジョヴァンニはロマンティックなヒーローなどではないし、「女性は襲われて『いや』と言いながらほんとうは喜んでいる」といった考え方も間違っていると感じました。モーツァルトの考えを尊重してゆけば、そうなるはずはないのです。

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

―― 女性側が陥落して行くような描き方には辟易しますが、今回はドンナ・アンナ(フェデリカ・ロンバルディ)、エルヴィーラ(アナ・マリア・マルティネス)、ツェルリーナ(イン・ファン)の3人とも、自分自身の強い意志で行動していることが伝わってきて、溜飲が下がりました。

フェデリカ・ロンバルディ、アナ・マリア・マルティネス、イン・ファンの3人は素晴らしい歌手で、そのイメージの形成にたいへん貢献してくれました。とても感謝しています。そしてもうひとり、忘れてはならないのが、指揮のナタリー・シュトゥッツマンです。彼女は歌手だったこともあり、あの3800席の劇場で囁くように歌っても、トランペットと同じように音が響くように装置(美術・照明/ヤン・ヴェルスヴェイフェルド)がつくられていることを、即座に理解していました。そして、私のステージングは非常に音楽的だと評価してくれました。モーツァルトの演奏に必要な強弱やテンポのメリハリが効いた指揮で、見事なMETデビューだったと思います。

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

MET《ドン・ジョヴァンニ》  (c)Karen Almond/Metropolitan Opera

―― 秋にはMETの新シーズンのオープニング『デッドマン・ウォーキング』の演出で再登場されますが、まずは超シリアスなこの『ドン・ジョヴァンニ』を堪能したいと思います。そして、ぜひまた日本にもいらしてください。

ありがとう。昨年『ガラスの動物園』で訪れた際の日本の観客のみなさんの集中力と拍手の大きさは私の想像を超えるもので、とてもうれしく思いました。なるべく早く、また日本に行きたいと思っています。

イヴォ・ヴァン・ホーヴェ(リハーサル風景) ⒞Jonathan Tichler/Metropolitan Opera

イヴォ・ヴァン・ホーヴェ(リハーサル風景) ⒞Jonathan Tichler/Metropolitan Opera

取材・文=伊達なつめ