1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島に原子爆弾を投下した。
あれから80年。あの日、何があったのか。当時の貴重な写真と共に振り返る。
1945年8月6日に広島に原爆を投下した米陸軍の爆撃機B29エノラ・ゲイとその搭乗員たち。中央が機長のポール・ティベッツ大佐。マリアナ諸島(現米自治領北マリアナ諸島連邦)テニアン島の米軍飛行場で撮影。撮影日は不明。エノラ・ゲイは同大佐の母親の名前で、同大佐が広島に向かう前日に書かせたとされる。同機にはこのほか原爆投下担当将校ら5人が乗り組んだ(アリアナ諸島テニアン島)
広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の復元機。米スミソニアン航空宇宙博物館新館で、報道陣に公開された(2003年/アメリカ・バージニア州シャンティリー)人類史初の原子爆弾投下は8月6日午前8時15分。その直後に起きたことを、広島市はこう伝えている。
<原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります>
広島原爆の原子雲。投下約1時間後、米軍機が広島南方の倉橋島上空付近から撮影したと推定される(広島県)広島への原爆投下による死者の数は現在でも正確には分かっていない。広島市によると、当時市内には居住者や軍人ら約35万人がいたとされ、1945年末までに約14万人が死亡したと推計される。爆心地から1.2キロ範囲内では、投下当日のうちにほぼ半分が死亡した。
広島市内の被害
相生橋東詰の商工会議所屋上から見た被爆した産業奨励館(原爆ドーム)
航空機から撮影された被爆後の広島市街地。原爆投下に使われた爆撃機「エノラ・ゲイ」乗組員3人のサイン(上)や爆心地(中央右の赤い印)が書き込まれている=1946年1月[米国立空軍博物館調査課提供]
原爆が投下されて3年後の広島市で、授業を受ける小学生たち
原爆投下後3年目の1948年に撮影された広島の町。一面の焼け野原にもぼつぼつ家が建てられている。ビルの屋上から2人連れが町を見下ろしている2024年のノーベル平和賞は、広島や長崎で被爆した人たちの全国組織で、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が受賞した。
広島、長崎の被爆者らの核廃絶に向けた草の根運動、また、核兵器を再び使用されないために証言活動を続けてきたことが評価された。
日本被団協の代表委員で、13歳の時に長崎で被爆した田中熙巳さん12月の授賞式では、日本被団協の代表委員で、13歳の時に長崎で被爆した田中熙巳(てるみ)さんが、今も地球上には1万2000発の核弾頭が存在していることや、ロシアのウクライナ軍事侵攻、パレスチナ自治区ガザ地区に対するイスラエルの攻撃などについて言及し、「市民の犠牲に加えて『核のタブー』が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます」と訴えた。

