買った本を、読まずに机や棚に置きっぱなしにしたことはないだろうか?
本の山に加わったその一冊は、きれいに積み重ねられているかもしれないし、棚からあふれ出ているかもしれない。あるいはKindleの中で“比喩的なホコリ”をかぶっているかもしれない。
いずれにしても「未読である」という現実は変わらない。
日本語にはこの現象を表す言葉がある。それが「Tsundoku(積読/積ん読)」だ。
「積読」とは?
「Tsundoku(積読)は一般的に、好奇心から買ったものの読まれない本、もしくはいつか読むつもりで積み上げている本のことを意味します」
そう語るのは、カーネギーメロン大学言語・文化・応用言語学部の日本研究の准教授である、安原義博氏だ。
安原氏によると、「積読」は1880年ごろの出版物に登場しており「滑稽な意味合い」が含まれていた。書誌学者で作家の森銑三によると、当時は読んでいない大量の本を所有する教師のことを風刺的に「積読先生」と表現していた。
山積みされた「読む予定の本」を詩的で自嘲気味に表現するのにぴったりな言葉、「積読」。多くの読書好きにとって魅力的な単語ではないだろうか。
また、この日本語はネット上の一時的な流行語でなく、興味深い言語的・文化的歴史を持つ言葉でもある。
イメージ画像同じくカーネギーメロン大学の日本研究准教授である藤永ゴードン清乃氏は「『積読』は現在は名詞として使われており、後で読むつもりの本を積み上げる習慣や状態を表します。実際に読むこともあれば、読まれないままの場合もあるのですが」と説明する。
藤永ゴードン氏によると、「積読」は現在は名詞として使われることが多いものの、元々は「積み上げてそのままにしておく」を意味する動詞の『tsunde-oku(積んでおく)』に由来する。
また、言葉遊び的な要素もあり、安原氏は「積読の2つ目の漢字(読=どく)は、積んでおくの『でおく』に音が似ています」と話す。
つまり、多くの言語と同じように「積んでおく」 という動詞は時間の経過とともに変化を遂げ、その結果、行動や現象を表す「積読」という言葉が生まれたというわけだ。
藤永ゴードン氏は「日本語の tsundoku(積読)は、今でも動詞としても機能するのですが、名詞として使われる時には高低のアクセントが変化します」と指摘する。
「このアクセントの変化は『積読』が語彙化し、現代の日本語の中で新たな文法的・意味的な地位を獲得したことを反映しています。動詞として使うこともできますが、英語としてこの単語が使われる場合は、『積読の一例』のような名詞で広く用いられています」
積読は良いこと?悪いこと?
藤永ゴードン氏は「積読はもともと、行動を中立的に描写する言葉――つまり単に『本を積み上げて放置する』という意味で使われてきたものだと思われます」とも説明する。
「しかし時間の経過とともに社会的な行動を表す名詞として使われるようになり、評価のニュアンスを含むようになりました」
「積読」は良いこととして捉えられているのだろうか、それともネガティブな行為と見られているのだろうか。
それは、状況に応じて異なるようだ。
藤永ゴードン氏は「日本のブログやSNSでは、積読は肯定的・中立的・否定的、すべての文脈で使われています」と述べる。
「ちょっとした恥ずかしさや罪悪感を表す場合もあれば、ユーモラスに使われることもあります。知的好奇心の表れとして誇らしさを表現することもあります」
つまり、積読を愛ある自虐を込めて肯定的に捉える人や、ロマンチックに語る人、批判的に見る人など、使われ方は様々というわけだ。
藤永ゴードン氏は「日本国内でも捉え方は人それぞれです」と語る。「積読はある人にとっては魅力的な習慣である一方で、別の人にとっては先延ばしや過剰消費の象徴になることもあります」
自身も「積読の傾向」があるという安原氏も、「積読はポジティブにもネガティブにもなり得ると思います」と話す。
安原氏はポジティブな捉え方として「たとえすぐに読まないとしても、心に訴えかける本を買わずにいられないのは良いことであり、知的活動の一部だと思います」と話す。
一方でネガティブに捉えられるのは、「好きで買ったのではなく、研究・宿題・仕事など“目的”のために購入した本を読むことを、怠惰や気力不足を理由に先延ばしにしてしまう時などではないか」と語った。
日本以外でも、「積読」という言葉は、未読の本の山を“失敗”ではなく“可能性”として捉える多くの本好きからの共感を得ている。イタリアの作家で哲学者の故ウンベルト・エーコ氏も、この言葉が心に響く一人だろう。
何万冊もの本(そのほとんどが未読)を個人で収蔵していたエーコ氏は、「アンチライブラリー(未読の蔵書)」という概念を提唱。この言葉は後に、エッセイストのナシーム・ニコラス・タレブ氏によって広められた。
未読の蔵書の根底にあるのは「読んでいないの本のコレクションは、知識に対する好奇心、謙虚さ、そして野心を示す」という考え方だ。それは「すでに知っていること」ではなく、「知らない無限のこと」を象徴するモニュメントとも言えるだろう。
そう考えると、「積読」は罪悪感ではなく、むしろ憧れを感じさせる習慣ではないだろうか。
積読されている本は、「自分はもっと成長し、学び、棚にあるあの小説や歴史書をいずれは読むだろう」という楽観的な信念の表れかもしれない。
ハフポストUS版の記事を翻訳しました。


