新しい年を迎え、私は弁護士としての自分の立ち位置を改めて見つめ直す。日米双方で活動していると、同じ「法」という枠組みであっても、国によってその役割や期待が大きく異なることを実感する。とくに2025年11月は、私にとって忘れがたい月となった。
なぜなら、日米それぞれの司法が、同性婚をめぐる重要な判断を下した月だったからだ。
米国では11月10日、連邦最高裁が同性婚の合憲性を覆すよう求めた申し立てを却下し、2015年の歴史的判決を維持した。一方、日本では11月28日、東京高等裁判所が結婚の平等への期待が高まっていた全国の流れに逆行する「合憲」判決を下した。
同じ「結婚の平等」をめぐる判断でありながら、両国の司法が示した姿勢は驚くほど対照的だった。これらの報道を見つめながら、「法は社会の鏡であり、同時に社会を形づくる力でもある」ことを改めて噛みしめた。これらの判断を起点に、結婚の平等の現在地を整理しておきたい。
「結婚の平等」は欧米の議論ではない
ワシントンD.C.の連邦最高裁判所前で、同性婚を支持する抗議集会に参加する人々(2025年11月7日)世界では同性婚の法制化が確実に広がっている。
2001年にオランダが世界で初めて同性婚を認めて以来、約40の国や地域が結婚の平等を実現してきた。
近年の動きは特に象徴的で、2025年にはタイが東南アジアで初めて同性婚を法制化し、欧州ではリヒテンシュタインも新たに加わった。2024年にはギリシャが正教会の影響が強い国として初めて同性婚を認め、エストニアはバルト諸国で初の合法化国となった。アジア太平洋地域でも、ニュージーランド(2013年)、オーストラリア(2017年)、台湾(2019年)、ネパール(2024年)といった国々が制度を整備し、かつて「欧米の議論」とされていた同性婚は、いまや世界的な潮流となっている。
司法が「結婚の平等」を切り拓いた
米国の同性婚の歴史は、決して一直線ではなかった。1990年代のアメリカでは、同性愛に対する法的・社会的偏見が色濃く残っていた。その象徴が1996年の結婚防衛法(DOMA:Defense of Marriage Act)である。
DOMAは、連邦政府が「結婚」を男女間のものに限定し、同性カップルを結婚として扱わないことを明確に定めた法律だった。これにより、たとえ一部の州が同性カップルの結婚を認めたとしても、連邦レベルでは税制・社会保障などの権利が一切認められないという、深刻な法的格差が生まれていた。
また、DOMAは州が他州の同性婚を承認しないことも容認しており、同性カップルの権利を制度的に制限する役割を果たしていた。
こうした状況に対し、2003年の「ローレンス対テキサス事件」は大きな転換点となった。この事件で最高裁は、同性愛行為を犯罪とする「ソドミー法」を違憲と判断した。
ソドミー法は、同性間の親密な関係そのものを処罰の対象とするもので、同性カップルを「市民」としてではなく「例外的存在」として扱う根拠となっていた。この判決により、同性カップルが刑事罰の脅威から解放され、法の下で「尊厳を持つ個人」として扱われる基盤が整った。結婚の平等への道は、ここからようやく本格的に開き始めたといえるだろう。
翌年の2004年、マサチューセッツ州が裁判所の判断により全米で初めて同性婚を合法化した。これは、州レベルの司法が連邦の保守的な制度に風穴を開けた象徴的な出来事だった。
その後、2013年の「合衆国対ウィンザー事件」で、最高裁はDOMAを違憲と判断した。これにより、同性カップルが連邦レベルの権利にアクセスする道が開かれ、結婚の平等の実現に向けた流れが一気に加速した。
続く2015年の「オーバーゲフェル対ホッジス事件」で、最高裁は同性婚を全米50州に認める歴史的判決を下した。判決は5対4という僅差であり、米国社会の価値観の分断を象徴していたが、それでも「結婚の平等」は憲法上の権利として確立された。
そして、2025年11月10日。保守派が多数を占める現在の最高裁が、同性婚の合憲性を覆すよう求めた申し立てを却下した。
2022年に人工妊娠中絶の権利を認める判例が覆されたことから、「次は同性婚が危ない」という不安が広がっていた。しかし今回の判断は、その懸念をひとまず退けるものとなった。
つまり、米国の司法は、「すでに確立された結婚の平等という権利を守る」という姿勢を示したのである。ただし、この判断は一時的なものにすぎないかもしれず、将来的に最高裁が中絶の権利のときのようにその決定を覆すのではないかと、私は今でも懸念している。
東京高裁の「合憲」判決が示した「立ち止まり」
「結婚の自由をすべての人に」訴訟において、東京高裁は11月28日、結婚を認めていない現在の法律の規定を「合憲」とする判決を言い渡した。原告の河智志乃さん、鳩貝啓美さん、山縣真矢さん、福田理恵さん、藤井美由紀さん、上杉崇子弁護士そんな米国と対照的だったのが、日本の東京高裁が11月28日に下した判決である。
全国で提起された6件の高裁訴訟のうち、他の5件はすべて「違憲」判断を示していた。しかし東京高裁は、同性婚を認めない現行法を「合憲」と判断した。
裁判長は「同性婚の制度化は国会で議論されるべき」と述べ、司法が積極的に権利保障を導くべきだとする他の高裁判断とは異なる立場を示した。原告側は「不当判決」と強い憤りを表明し、「司法は私たちの味方ではないのか」と疑問を呈した。
日本はG7で唯一、同性婚に法的保護を与えていない国である。今回の東京高裁判決は、制度の不安定さを象徴する出来事となった。今後は最高裁が最終判断を下す見通しだが、司法の姿勢が分かれる現状は、当事者らにとって大きな不安を残す。
「レールを敷く」のは誰か
日米の11月の判決は、結婚の平等をめぐる両国の司法の姿勢を鮮明に浮かび上がらせた。
アメリカは、すでに敷かれたレール(結婚の平等)を維持することを選んだ。日本の東京高裁は、そのレールを敷く作業は司法ではなく国会の仕事だとして、一歩踏み止まった。
同性婚の法制化は、長年「ゲスト」として扱われてきた人々が、ようやく「家族」として名義登録されたことに例えられる。しかし、その家族の周囲には、まだ、古い規則が残っている。
法は社会の外側にあるのではなく、社会とともに変わる生きた制度である。家族の形が多様化する時代に、法がその多様性を包み込む器であり続けるために、私たちの闘いはまだ続いている。
(文:ライアン・ゴールドスティン 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)


