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2026年1月21日(水)にニューアルバム『Chopin Orbit』をリリースしたピアニスト角野隼斗。
現在、新譜のリリースを記念しての『角野隼斗 全国ツアー2026 ”Chopin Orbit” supported by ロート製薬』を開催中だ。1月30日(金)の長野・八ヶ岳高原音楽堂を皮切りに、3月2日(月)の東京・サントリーホールでの千秋楽公演まで13都市16公演のロングランのツアーは、ほぼ折り返し地点を越えたところにある。2月13日(金)に東京芸術劇場 コンサートホールで開催された公演の模様をレポートする。

新譜『Chopin Orbit』に紐づいた内容のプログラムで聴かせる今回のツアー。この新たなアルバムは、角野にとって最も重要な作曲家の一人であるショパン作品が中心となっているが、それらの作品群にインスピレーションを与えられて誕生した角野のオリジナル新作品も(ショパン作品の原曲とともに)交互に収録されている。

そして今回のツアーのプログラムにおいても、“ショパン&角野”作品の絶妙なカップリングが随所に散りばめられており、ライブ感あふれる演奏によってさらにその意図が手に取るように感じ取れるのも実に興味深い。そのような意味でも、リアルな演奏会に足を運んで聴く価値は実に大きい。

では、2月13日(金)に東京芸術劇場 コンサートホールで開催された公演の演奏を振り返ってみよう。

第一曲目はショパン「スケルツォ 第1番」。角野は冒頭からかなり自らを追い込むように劇的な緊張感を持たせる。しかし、それだけの隙のないドラマティック性を持たせながらも、終始、洗練されたスタイルが漂い、馥郁たる芳香を感じさせる。技巧的にも攻めまくるが、恐らく、この人の内面に感じる重厚な和声感から生みだされるものなのだろう、同時にビロードのような光沢ある質感のあるドラマを聴かせる。

ポーランドに伝わるクリスマス聖歌が用いられた中間部では、打って変わって、朴訥とした、しかし時に驚くほどに純真なロマンティシズムを湛える。抑制を効かせた穏やかなダイナミクスを構築し、息の長いフレーズを描きだす。再現部では冒頭よりもさらにパトスを滾らせ、怒涛のようなフィナーレで一つのストーリーを完結させた。

二曲目はショパン「練習曲集 作品25」より「エオリアンハープ」。右手の美しい旋律に寄り添うように絶妙な美的感覚で左手の和声を神々しいばかりに同調させる。このようなアルカイックな作品においても、角野は“サウンドクリエイターらしさ”を滲ませ、ショパン本来の様式から決して逸脱することのない枠組みにおいてビビッドな色彩感と音の質感を鮮やかに際立たせる。

続いて演奏されたのが、「エオリアンハープ」にインスパイアされて創作されたという角野の自作品「リディアンハープ」。「エオリアンハープ」がエオリア旋法に基づいて作曲されていることからも、対してリディア旋法をイメージしているところが角野の知性を物語る。ショパン原曲の「エオリアンハープ」のリズムや旋律のフォルムを絶妙に踏襲しながらも、極めて独創性のある壮大な音の世界を描きだす。まるで静寂に満ちた深い森の中で妖精たちが囁きあっているかのような叙情的な幻想性とギリシャ神話的な官能の世界が共生しているかのような、得も言われぬ世界を導き出していた。

続いてはショパン作品から「マズルカ 作品24」の二曲。洗練された語り口だが、しっかりとマズルカ本来の民族舞踊のアクセントと語法を明確に際立たせる。特に二曲目ハ長調作品においてのリズムの捌き方の巧さに、踊り手たちの溢れんばかりの喜びの表情が感じられた。

続いて演奏されたのは、前作品のショパンの手によるマズルカに対して現代作曲家トーマス・アデスによる「マズルカ作品27-2」。ショパンとアデスの同名作品を一対に配置する試みも角野らしい。ピアニストでもある作曲家アデスらしく、楽器の特性を生かした美しい作品だ。角野はみずみずしい下降音型をどこまでも流麗かつキラキラと輝く音とともにハイライトし、この作品の醍醐味を存分に聴かせた。

次なる作品はアルゼンチンの作曲家ヒナステラの「ピアノ・ソナタ 第1番 作品22」。第一楽章では、連打音など、この作曲家らしい激烈なピアニズムを粗野(失礼!)になることなく、エレガントに、しかし角野らしい独特なリズム感のキレで聴かせる。この作曲家の大作品となると奏法の面白さと大胆さが一つの魅力だが、角野は最強音の連続もオクターブの連打も優美にスタイリッシュにまとめあげ、超絶技巧的なこの作品にロマンティシズムの香りを与えていたようにも思えた。

第二・三楽章は官能的な響きのアルペッジョの連続を雄弁な語り口で歌い上げ、神秘主義的なものすら感じさせるトーンクラスターを効果的に挿入する。一音一音噛みしめるように奏でられるアルペッジョの響きは、そのすべてに言葉が宿っているのではないかと思わせるほどの力強さを湛えていた。そして、終楽章———留まるところの知らない怒涛の流れが次第に最強の音量をともなって拡大してゆく。そのプロセスをある種、機械的に非の打ちどころのないミニマリスティックともいえるピアニズムで表現しきった。

前半のプログラムを締めくくるのは、再び角野の自作品 ポロネーズ「空想」。もちろんショパンのポロネーズ「幻想」を意識しての作品だ。重厚で正統派のクラシック音楽様式を感じさせるイントロダクションを経て、豊かなピアノサウンドを響かせながら次第に独自の“ファンタジック”な世界を描きだしてゆく。決して“幻想性”と漢字で表記する世界観ではなく、まさに“ファンタジック”という形容がふさわしい、どの世界にも属さない角野だけのオリジナルな世界が繰り広げられてゆく感じだ。

さらに展開してゆくうちに聞こえてきたのは、我々日本人にとって何となく懐かしさを感じさせるリズム感とメロディ……。本人いわく、ポーランド由来のポロネーズ的な民族色ではなく、日本の祭りからインスパイアされたものだそうだ。とは言え、俯瞰してみると、決して日本の民俗舞踊的要素にも属さない、まさにタイトルどおりの“空想的”で唯一無二の音の世界だったのは実に興味深い。独創性の中にも華のある色と響きを創りだし、品格ある祝祭性を軽やかに歌い上げていた。

後半の第一曲目は、前半最後に聴かせた 自作のポロネーズ「空想」に対して、ショパンのポロネーズ「幻想」。フレージングやリズム感において、少々マニエリスティックな(若干、過度に意図的な誇張的な)表現が感じられたが、この作品の持つ幻想性、儚さや脆さ、そして悲壮感という多様な感情の襞を細やかに、そして鮮やかなまでに描きだす力は角野ならではだ。そして、その演奏には何よりも高貴さが漂っていた。16分音符が連なるショパンらしい華麗なる装飾的パッセージも濃厚に塗り過ぎず、エンハーモニック的な和声感の変化も自然にうつろいゆくように淡々と歌いあげる。またコーダ(終結部)の、美々しい程に悲壮感を感じさせるピアニズムの中にも光のあたたかみを感じさせるところがこのピアニストの真骨頂と言えるだろう。

続いて、ショパン「子守歌」を経て、突然、アドリブ的にプログラムにはない一曲が演奏された。角野オリジナル作品「ラルゲット」。当初は予定していなかったが、突然演奏したくなったのだと言う。タイトルの通り、ショパン 「ピアノ協奏曲 第2番 第2楽章 ラルゲット」のあの美しい旋律が主体となっており、次第にビル・エバンス的なジャジーな世界が繰り広げられてゆくというユニークな作品だ。雨の日の静かな夜に聴きたいようなしっとりとしたコージーな(居心地の良い)雰囲気に満ちたもので、角野はどこまでもやさしい音で愛おしむように弾きあげた。

続いてはプログラムのラインナップに戻って、こちらも角野のオリジナル作品 ポストリュード「雨だれ」。ショパン「前奏曲集 作品24」からの一曲「雨だれ」を意識した作品だ。本人談では、スイスの教会でピアノを弾いていた際に見た、天窓から注ぎ込む一条の光のイメージを描きだした即興作品で、“雨上がり”のイメージなのだという。

ショパンの「雨だれ」の主旋律が控え目なジャジー感で浮き上がってくるのだが、その美しき旋律を新たな手法と様式感で見事に生き生きとよみがえらせており、サウンドクリエイターとしての角野の研ぎ澄まされた感性を存分に感じさせてくれた。一条の光に照らされた茫漠とした空気感の中に漂う、無限の光のたゆたうような美しさとみずみずしさを手に取るように感じさせてくれる演奏でもあった。

続いても角野のオリジナル作品 エチュード「白鍵」。タイトルを聞くと、ショパンの有名なエチュード「黒鍵」のパロディを思い起こさせるが、実に和声進行が巧みで、随所に散りばめられた細かい音の連続がレースのように軽やかで聴いていて癒される作品だ。

そして、連続してショパンの「黒鍵」を演奏するところもまた角野らしい。もはやエチュードの枠を超え、天上の音楽を感じさせるようなサウンドで華麗に弾きあげる。「白鍵」、原曲の「黒鍵」ともに角野のオリジナル性あふれる世界観を存分に楽しめた感じだ。

後半のプログラムを飾るのは、舞踊曲二題。まずはショパン ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」。折につけ角野が良く演奏している自家薬籠中の作品だが、この日の演奏はコケティッシュで愛嬌ある音楽づくり。何よりも本人がこの作品をこよなく愛していることがひしひしと伝わってくる演奏だった。

そして舞踊曲の二作品目は、ラヴェル「ラ・ヴァルス」(ピアノ独奏版)。冒頭からすでに何か起こりそうな予兆を感じさせるスリリングなトレモロを聴かせる。そこから先はラヴェルの知性あふれる独創性と角野のきらめく色彩感に満ちたサウンドとの幸せな邂逅が導く至福の世界———躍動感あふれる音の連なりがあたかも独りでに踊りだしてゆくかのようだ。控えめなタッチで語られる祝祭的な歓びもまた、ある意味で官能的でもあり、この作品の持つ神秘的な‟魔性”を思う存分に引き出していた。

もっと派手なアクションで超絶技巧を披露することもできたはずだが、敢えて抑制を効かせていたところも心憎い。演奏者が派手なアクションを見せることで聴衆を突き放すのではなく、演奏者と聴衆とが対等に音の感覚を感じられる関係を保つことで、よりいっそう互いが五感の上で共感し、同調できるのだ……と、この演奏を通して新たな気づきを得たようにも思える魅力的な演奏だった。ピアノという打楽器をあらゆる角度から研究し、数々の音響的な試みを経て体得した角野ならではの境地だろう。

これで本プログラムはすべて終了。もちろん客席は熱狂しているが、客席の反応からもまた、内に秘めた強いものを湛えている様子が伝わってくるようだ。むやみにスタンディングオベーションで演奏者と称えるというよりも、大人の雰囲気で角野の独自の世界をリスペクトし、心から称えてているかのようだった。

そうこうするうちにアンコールを演奏する角野。「ショパンの生きた時代にちなんでロマン派的なサロンを想定します。客席の中から、ランダムにお二人を選んで、思い付く作曲家名とショパンの作品ジャンルから一つずつあげて頂いて、その二つの要素を合わせて即興したいと思います」と宣言。選ばれた聴衆二人が挙げたのは、“ラフマニノフ”と“ポロネーズ”という回答だ。

そして角野は見事にラフマニノフのコンチェルト第2番のテーマを主体に、重厚で民族色あふれる色調とポロネーズ特有のリズムを生かし、壮大なインプロビゼーションを聴かせた。中間部にラフマニノフ張りのロマンティックでラプソディックな甘いメロディもしっかりと挿入し、構成的にも音楽的にも完璧な演奏だった。

そして、アンコール第二曲目は、角野のオリジナル作品「frostline」。角野がフィギュアスケーター鍵山優真氏の今シーズンのエキシビション用に書き下ろした作品であり、今回のオリンピックの舞台でも披露され、話題となっている。この演奏会の夜(2月13日の夜半)にフィギュアスケート男子フリープログラムの決勝が行われるとあって、「祈りと願いを込めて演奏します」という粋なアイディアが実現したかたちだ。角野は希望と光にあふれ、若々しさの輝きを感じさせる作品を壮大に弾き上げた。もっとも作曲家本人による生命感あふれる演奏だからこそ、ここまでの情熱が体感できたのかもしれない。

角野のユニークでエスプリあふれるアイディアと即興性が生かされた極上の演奏会——当ツアーの千秋楽は3月2日(月)、東京・サントリーホールにて。全国の全公演が完売となった本ツアーだが、残念ながらチケットを入手できなかったファンのために千秋楽のライブ配信が予定されており、その極上の音楽体験を余すところなく味わうことができる。

取材・文=朝岡久美子 撮影=Ryuya Amao