日本を代表する指揮者 佐渡裕。10年にわたって絆を深めてきたオーストリアの「トーンキュンストラー管弦楽団」の音楽監督を2025年夏、2回の契約更新を経て任期満了で退任する。佐渡の在任中、同管弦楽団との日本客演公演はすでに2回実施されたが、ついに2025年5月の来日をもってラストツアーとなる。記念すべきこのツアーにはピアニスト 反田恭平も帯同。佐渡、反田両氏にラストツアーにかける思いを聞いた。
メンバーたちとの友情と信頼から生まれる唯一無二のサウンド
――トーンキュンストラー管弦楽団(以降「トンク管」)との10年の蜜月を振り返っての佐渡さんの思いをお聞かせください。
佐渡:在任期間中にコロナ禍の数年を挟み、僕があちら(オーストリア)に渡航出来ない時期や、オーケストラ自体が演奏会を実施できない大変な時を共に乗り越えてきました。困難な日々を一緒に過ごしたこのオーケストラの何が最も素晴らしいか表現しようとすると、「友情」という言葉に尽きると思います。友情が音になって表れている彼らとの10年間、本当に僕自身は幸せでしたね。
もちろん、オーケストラは個性的な人間の集まりですから、意見のぶつかり合いや、問題は様々起こります。けれど、一つの美しい音楽を創りあげるという共通意識は全員の中で絶対にブレないです。皆が絆で結ばれて、本当に一つの家族のように感じていますが、お互いきちんと距離感も心得ていて、僕を指揮台に立つ人間として尊重もしてくれたとてもあたたかい大人な付き合いですね。
――音楽監督として一つのオーケストラと共に10年を歩むというのは大変稀なケースだと思いますが、トンク管について最も評価すべき点や特質というのはどのようなところでしょうか。
佐渡:2025年は芸術監督を務めている兵庫芸術文化センター管弦楽団(以下PAC)の20周年にもあたります。PACは僕が初代芸術監督で歴史ゼロからのスタートでした。一方、トンク管はすでに110年の歴史を持つオーケストラです。実に対照的ですよね。PACはプレイヤーも皆若く、アカデミー的な要素を持っているので、メンバー全員、何が何でも一番奏者かソリストになりたいという野望を抱いている。「音楽で飯を食いたい」「オーケストラで一番ソロを吹きたい」という若い情熱をこちらも必死で受け止めなくてはいけなかったんです。
若い彼らと共に歩むことでの気付きも多くありました。例えば、オーケストラにとって、2番クラリネット、2番オーボエ、あるいは2ndバイオリンやビオラ、コントラバスの存在がいかに大事か。言わば、縁の下で音楽を支えているメンバーたちです。彼らの存在があってこそ音程も音色も決まり、オーケストラの厚みも変化する。もちろん指揮者として以前からわかっていたことですが、改めて思い知らされました。
一方、“トーンキュンストラー“(=音の芸術家)の名を持つ音楽家たちの集団は、そういうパートにこそ名人が存在するんです。100年余の伝統の中に受け継がれた誇り高い楽団のDNAを見事に彼らが体現しているんですね。
反田恭平が佐渡裕から学んだことは……
――反田さんは現在、指揮者としても活動しておられますが、佐渡さんの10年にわたるトンク管との実績をどのように感じていますか。
反田:純粋に“凄い”の言葉に尽きます。僕自身、指揮を勉強し始めたことで、“指揮者”という存在をよりリスペクトするようになりました。歴史もスタイルも違う二つのオーケストラを率いて10年、こうやって継続されて監督を務められているのはとても名誉あることだと思います。
デビュー以来270回以上コンチェルトを弾かせて頂いた中で、実は佐渡さんとの共演が最も多いのですが、今、指揮を学ぶ立場になって改めて、メンバーたちやソリストとどのようにコミュニケーションを取り、いかにリハーサルを進めて、本番に挑むのか、そのプロセス一つひとつがとても大事な時間だったんだなというのをすごく感じています。
――具体的に佐渡さんからはどのようなことを学ばれたのでしょうか。
反田:何と言っても本番へのオン・オフの切り替えですね。ゲネプロやそこまでのリハーサルももちろんお互い真剣にやるんですが、佐渡さんの場合、特に本番にいかにしてオーケストラの集中力を持ってこさせるかが素晴らしいんです。例えるなら、山頂までの登り方というか。佐渡さんはスイッチの切り替えのリードが秀逸なんです。そこは僕も一つの技術として盗ませて頂いて、常日頃、実践しています。
佐渡:今の話で思い出した。前回ラフマニノフの4番を共演したオランダはすごかったよね!(笑)。
反田:デンハーグのオーケストラでしたね。
佐渡:本場間近、オーケストラと合わせる前に打ち合わせしようかなと思って反田君に連絡したら「今ホールで練習してます」って言うから行ってみたら必死で練習していて……。本番はビシッと決めて、お客さんも大熱狂だったね。
反田:何はともあれ面白かったです。
佐渡:いや凄いですよ。ああいう風にできてしまうっていうのは。“自分の中で完全に納得いく点”、“ハマる沸点”というのがあるんでしょうね。「そこまでいかないと」というのが反田君のやり方で、もう既に若いのに“反田ブランド”みたいなものがあって、反田印のスタンプを押せる自信があるんでしょうね。
反田:普段なら初めての曲って不安になったりするときもあるんですけど、実はあの時全くなかったんです。最後まで24時間ラフ4を聴いてて、そのまま本番という感じでしたね。
トーンキュンストラー管弦楽団の響きの秘密
――具体的にトンク管の音の響きの特質についてお話頂けますでしょうか。
佐渡:やはりウィーン特有の楽器を使用しているのが大きいと思います。例えば、金管楽器セクションではフレンチ・ホルンとは違うウィンナ・ホルンを使用していますし、トランペットもロータリートランペットというドイツ・オーストリア製の楽器を使用していることで統一感ある見事な響きを聞かせてくれます。
もう一つ特筆すべき点は、楽団のホームグラウンドが基本的にウィーンの楽友協会(ムジークフェライン)の大ホールなので、そこで練習をして本番を行います。加えてウィーン郊外のザンクト・ペルテンの祝祭劇場と、夏にグラフェネック国際音楽祭の会場となるホールの三つ巴の本拠地をもっています。一つのプログラムをウィーン楽友協会で2回に加えて最低でも3回、多い時は4回本番で演奏できるわけです。これは僕がトンク管を引き受けた最も重要なポイントの一つで、とてもありがたいと感じましたね。
練習は三日間するけれど、本番は一回しかないというのは、音楽を練りあげる時間が足りないんですね。オーケストラというのは聴衆の前でこそ化学反応を起こすので、それが何よりも貴重な経験になって進化するのです。トンク管の場合、それをウィーンの楽友協会という舞台で実践できるので、さらに意義深いものになる。楽友協会の舞台で鳴らす音が我々の音ですし、未だに演奏するたびに新鮮な感動を覚えます。ベートーヴェンをやっても超現代曲をやっても楽友協会というのは本当に特別なホールです。
――ウィーンの楽友協会の聴衆は耳も厳しいですし、メンバーの皆さんもつねに伝統の重みを感じて演奏しているわけですね。
佐渡:あの空間でベートーヴェンやブルックナーの作品を演奏するというのは、途轍もないプレッシャーがあるのは当然なのですが、100年の歴史によるものなのか、トンク管にとってはその巨大なプレッシャーの塊とも言える研ぎ澄まされた緊張感が楽友協会の響きと驚く程に融合していくんです。こうして考えると、彼らの持ち味である “あたたかい音” もまた、歴史的に楽友協会の響きの中で創りあげられてきたんだと思います。そして、この特徴的な響きを僕らは他のどのホールに行っても聴かせられると考えています。
ラストツアーの選曲意図は?
――2025年5月に実現するトンク管とのラストツアーでは、単一プログラムで全公演マーラーの交響曲第5番、そして反田さんとの共演でモーツァルトのピアノ協奏曲 第23番を選ばれました。マーラー5番は佐渡さんご自身がお選びになったのでしょうか。
佐渡:最後のツアーですから、このオーケストラの多面的な魅力を存分に見せたい、聴かせたいと思いました。第四楽章のアダージェットは深い弦楽器の響きが出せないと時間的な流れが止まってしまいますし、全編を通して技術力に加えて、あらゆる音楽的要素が要求される勝負曲の中の勝負曲だと思っています。
トンク管は全体的にとても渋いオーケストラだと思うんです。先ほどオケ全体が家族のように強い絆で結ばれていると言いましたが、最も印象的なのは各楽器セクションで、ユニット全体がそれぞれ一家族のようなんです。マーラー5番はトランペットから始まり、スケルツォの部分はホルンが大活躍しますが、決して自己主張を強くするタイプの人間がいないんです。
――調和型というところでしょうか。
佐渡:そうなんですが、その中にも超名人たちが潜んでいる。ホルンなんて本当に「この音はこの人にしか出せない」と思うようなソリスト的な人材がそろっていて、セクション全体の音色においても同様のことが言えます。特にこの交響曲では、管楽器群がソロで演奏する箇所は非常に大切で、鳥の声や、子守歌、時に勇ましい響きであったり、作品を作りあげる上で重要な役割を果たすので、彼らもその期待に多いに応えてくれると思っています。
――前半は反田さんがモーツァルトのピアノコンチェルト 第23番を演奏しますが、この作品は反田さんご自身が選ばれたのでしょうか。
反田:僕のほうから希望をお伝えしました。日本でのラストツアーの直前(5月3日~5日)にウィーンの楽友協会を含め現地で3回弾かせて頂くのですが、トンク管、ウィーン楽友協会の大ホール、そして佐渡さんの指揮によるモーツァルトのコンチェルト共演というのは今までになかったのでぜひ実現してみたいと思いました。
――23番の魅力とは?
反田:20番と23番というのはモーツァルトを代表するピアノコンチェルトで、ピアニストとしては一つのレパートリーとして絶対に持っておかなければいけない作品だと思っています。
僕が初めてモーツァルトのコンチェルトに触れたのは17番で、モーツァルトのピアノコンチェルトを好きになるきっかけを作ってくれました。その次に弾いたのが23番です。高校での作品分析の授業の一環でしたが、すごく印象に残っていて、それ以来「大切な場で弾きたい」とずっと温めていた作品だったんです。
――あの美しい第二楽章をどのように演奏するのかにも期待が高まります。
反田:モーツァルト自体が ”アダージョ”(ゆるやかに) という速度記号を使うことが珍しかったので、この作品の中であえてアダージョを置いた意味合いや、ピアニスティックに描かれていることにとても関心があります。また 「戴冠式」(同ピアノ協奏曲 第26番) に次ぐスケールに近づきつつあって、編成的なバランスにおいても明らかに集大成に近づいています。この最高傑作を、まずは現地ウィーンで佐渡さんとともに演奏させて頂いて、かつ、この魅力を日本の皆さんにもお伝えできるのは何よりも楽しみです。
次の10年へ、新たな幕開け
――反田さんは弾き振りもなさるわけですが、今回はソリストとして佐渡さんと共演されることをどのように受け止めていますか。
反田:弾き振りとソリストを務めるとことは全く別物だと思っています。最近、僕の中でウィーンのオーケストラの音楽性というものずっと考え続けているのですが、彼らのサウンドがオーストリアの作曲家を弾く上では何よりも大切だと思うので、今回佐渡さんとトンク管と演奏するモーツァルトが、どのような音色で聞こえてきて、僕のピアノと絡み合うのかをソリストとして感じられるのは本当に楽しみで仕方ありません。良い意味で想像ができないんです。お互いにどういうサウンドを創りだせるのか今からワクワクしています。
――佐渡さんは、反田さんとショパン・コンクールの前から共演なさっていますが、現在の反田さんの音楽家としての成長ぶりというのをどのように感じていらっしゃいますか。
佐渡: 彼のピアノを聴くと、いつもとても新鮮に感じられます。音が本来持っているかたちや姿、たとえば躍動感であったり濃厚さであったり、逆に清涼感であったりと、彼の演奏を聴いていると、そうしたものがすごく浮きあがってくるんですね。もう技術的に云々というレベルは明らかに超越して、そういうところに聴衆を連れていってくれるというのは特別な才能だと思います。
――2020年のウィーンでの初共演と録音、2023年の2回目の共演。そしてこの間にはウィーンで予期せぬテロ事件が起きたり、2021年に予定されていたトンク管日本ツアーが中止になったりと、三者間(佐渡ー反田ートンク管)には特別な思いや連帯感のようなものもおありかと思いますが、改めまして今回のラストツアーにかける意気込みをお聞かせください。
佐渡:今、反田君が多くのことを語ってくれたけれど、僕自身の中で最も好きな作曲家は実はモーツァルト、メンデルスゾーン、マーラーなんです。ですから、このツアーで反田君とモーツァルトを、トンク管とマーラーを演奏できることに途轍もない歓びを感じています。今回で反田君とはこれで5回目のツアーになりますが、ここまで彼と寝食をともにするツアーを重ねてきたのにはそれなりの理由がありますし、今回はより一層特別な思いがありますね。
音楽監督退任後ももちろん客演でトンク管を指揮する予定がありますし、縁が切れるわけではないのですが、今回のツアーと、その後2つのウィーンでのプロジェクトをもって、兵庫、オーストリア、そして東京の新日本フィルという3つのタイトルの掛け持ちに一つの区切りをつけることになります。今回のツアーでは兵庫県立芸術文化センターでの演奏会もありますし、ツアー最終公演地は新日本フィルの本拠地で音楽大使も務めている墨田区のトリフォニーホールです。トンク管のメンバーたちをこの二つの劇場に連れていって、それぞれのお客様に聴いていただけるのは感慨深いですね。今から込み上げてくるものがあります。
取材・文=朝岡久美子 撮影=福岡諒祠