スーパーマンを演じたデヴィッド・コレンスウェット【あわせて読みたい】スーパーマンは「移民の物語」。監督の発言を右派は批判。トランプは自分がスーパーマンだと主張する画像を投稿
数々のヒット映画を生み出してきた「マーベル」が「シネマティック・ユニバース」という言葉とセットで語られるようになったのは、実は最近のことだ(※マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)とは:マーベル・スタジオが制作する映画やドラマなどのシリーズで、共有された世界観を舞台にして相互につながった物語が展開される)。
かつてのマーベルは、倒産寸前のコミック出版社だった。残された知的財産をなんとか収益化するための最後の試みが2008年の映画『アイアンマン』だった。
その後どうなったかは誰もが知っている。アベンジャーズが結成され、ディズニーが買収し、莫大な利益を上げ、スーパーヒーロー疲れも起きる――。しかし、全36作にも及ぶサーガへと成功するための種は、「マーベル・シネマティック・ユニバース」シリーズの1作目『アイアンマン』の中に蒔かれていたのだ。
2025年7月公開の映画『スーパーマン』は、この『アイアンマン』と同じような成功を収めなければならない。
ジェームズ・ガン監督による新たなDCユニバース(ザック・スナイダー主導の陰鬱なDCエクステンデッド・ユニバースに代わる、新たなリブート)の第1作目として、この作品は観客を新たなヒーローの世界へと誘い、マーベルの軽妙な映画シリーズやスナイダーの暗い作風とも異なるトーンを打ち出しつつ、今後数年間のワーナー・ブラザース・ディスカバリーの興行成績を支える必要がある。
つまり、『スーパーマン』には重圧がかかっているということだ。公開前に右派から起きた「Woke(ウォーク)」だという批判は、その妨げともなりかねない。(※Wokeとは「社会問題に対する意識が高い」ことを意味するが、右派は嘲笑的かつ批判的にこの言葉を用いることがある)。
それだけに、ガン監督の『スーパーマン』が、単なる新しいシネマティック・ユニバースの作品ではなく、完成度の高い独立した良作映画であることは、奇跡的と言える。
もちろん、この作品が新たな映画シリーズになりうる要素は、全編を通じて散りばめられている。
メタヒューマンの存在や、象徴的な役を演じる有名俳優のカメオ、ジャスティス・リーグの誕生を予感させるギャグなど、今後の展開につながる描写が満載だ。
しかしこの映画を支えているのは、間違いなく「今」「ここ」にいる主役たちを深く描き、その物語を語ろうとする姿勢であり、「次に何が起こるのか」という期待感ではない。
【動画】映画『スーパーマン』の予告編
どんなあらすじ?
※以下、(ほんの少しだけ)ネタバレに注意
ガン監督の『スーパーマン』は、よく知られた誕生秘話をあえて省略し、物語はカル=エルが地球の守護者となって3年が経過したところから始まる。
しかし、これは最悪のタイミングだった。ほぼ無名俳優のデヴィッド・コレンスウェットが演じたスーパーマンは、ボラビアのハンマーという名のメタヒューマンとの戦いで、人生初の敗北を喫したばかりだ。
ハンマーは、アメリカの内政干渉への報復として、ヨーロッパの架空の国から送り込まれた存在と思われるが、すぐにその正体はスーパーマンを破滅させるためにレックス・ルーサー(ニコラス・ホルト)によって作られ、操られていたメタヒューマンであることが明らかになる。
この基本となるあらすじは最初の15分で示され、以降約2時間にわたる物語の展開軸となる。
ルーサーが整然と、時に残酷に進めようとする計画を、スーパーマンと仲間たちは阻止しようと奮闘する。
スーパーマンの仲間は、大きく2つのグループに分けられる。
「ジャスティス・ギャング」はグリーン・ランタン(ネイサン・フィリオン)、ホークガール(イサベラ・メルセド)、ミスター・テリフィック(エディ・ガセギ)からなる、3人組のスーパーヒーローだ。
この記事では3人の人物像に深く迫らないが、それぞれの個性と能力がしっかりと際立っており、もっと見たいと思わせるキャラクターだ。今後ジャスティス・リーグ映画に再登場する可能性は高い。
スーパーヒーローと同じくらい重要な存在が、デイリー・プラネットの新聞記者たちだ。
ロイス・レイン(レイチェル・ブロズナハン)とジミー・オルセン(スカイラー・ギソンド)が率いる編集部は、スーパーマンの仮の姿であるクラーク・ケントとともに、古き良き調査報道を通じてレックス・ルーサーに立ち向かう。
作中では現代のメディア環境にも言及しており、バズる動画やテレビに出演する専門家が、伝統的な新聞よりも大きな影響力を持つ時代であることが描かれている。
主役の3人
映画は、コレンスウェット演じるスーパーマン、ブロズナハンのロイス・レイン、ホルトのレックス・ルーサーの3人を軸に進む。
コレンスウェットは、スーパーマンが育った場所であるカンザスのトウモロコシ畑から抜け出してきたかのような雰囲気をまとっており、クリストファー・リーヴ以来、最適の配役と言えるかもしれない。
彼が演じるスーパーマンは、自信と葛藤の両方を抱えた人物であり、たとえ世間が背を向けようと、無実の人々を守るという使命を決して曲げない。その姿勢は、いつ暴力に走り、人類を服従させようとするかわからないようなスナイダー版スーパーマンとは対照的で新鮮だ。
ロイス・レインを演じるブロズナハンは、『マーベラス・ミセス・メイゼル』で見せた快活なエネルギーをそのままに、より自信に満ちた姿で登場する。
彼女は何度もスーパーマンの道徳的な指針となり、記者としてもクラーク・ケントを凌ぐ存在だ。
ふたりの恋愛関係も感情を揺さぶる重要なストーリーの基盤となっているが、その関係が真の愛なのか、ただ相手に夢中になっているだけなのかは、わからない。
スーパーヴィランのレックス・ルーサーを演じたニコラス・ホルトはかつてスーパーマン役のオーディションも受けていたことで知られている。しかし本作を見る限り、彼がルーサー役に適任だったことは明らかだ。
過去に演じてきたごますりで自己満足的なキャラクターが、すべてこの役の予行練習だったかのように思える。ホルトは、嫉妬心と支配欲、同時に恐怖心を抱く複雑なルーサー像を見事に演じきっている。
ニコラス・ホルトが演じたレックス・ルーサーさらにこのルーサー像は明らかに、現代アメリカの民主主義を呑み込もうとしているテック系オリガルヒ(権力を握る少数エリート)を象徴する存在になっている。
特定の富豪を直接的に描写しているわけではないが、ルーサーのスキンヘッドはAmazonCEOのジェフ・ベゾスを彷彿させ、政府や国際政治を操ろうとする様子は、イーロン・マスクを連想させる。
熱狂的にルーサーに従う大勢の従業員たち(中にはニキビがまだ残る若者もいる)は、マスクが率いる「DOGE(政府効率化省)」で働いているかのように、馴染んでいる。
映画は「スーパーウォーク?」
ガン監督の『スーパーマン』は、政治的な主張を前面に出した作品ではないが、時事的なテーマが垣間見えるのも事実だ。
例えば、スーパーマンを収監しようとするアメリカ政府が作ったポケットユニバースの監獄は、移民税関捜査局(ICE)やブラックサイト刑務所(アメリカの諜報機関が、テロ容疑者へ過酷な尋問を行っているとされる秘密軍事施設)を連想させる。
また、作品内で登場するアメリカの同盟国で高度な技術を持つ国家ボラビアと、その隣国の貧しいジャルハンプールの間で起きる軍事衝突は、イスラエルとガザを思わせる。
しかし、これらの類似点が意図的に描かれたとは言い難い。現実の世界の方が、週末の子ども向けアニメに出てくる悪夢のような展開になってしまったのは、ガン監督の責任ではない。
それでもガン監督は、常に物議を恐れない人物であり、『スーパーマン』も例外ではない。映画の内容自体は控えめだが、監督はイギリスのタイムズ紙とのインタビューで、スーパーマンは「移民の物語だ」と発言している。
「スーパーマンはアメリカの物語だ。異国から来て、この国を築き上げた移民の物語だ。もちろん、世の中には優しさのかけらもない連中もいるだろう。『優しさ』をテーマにしているという理由だけで不快に感じるような奴らがいる。でも、そんな奴らは知ったことか」
この発言を受け、保守派のFoxニュースは作品を、先ほど紹介した「Woke(ウォーク)」という言葉を使って「Superwoke(スーパー・ウォーク)と紹介し、司会のジェシー・ワターズは「彼のマントにはMS-13と書かれているのでしょう」と揶揄した(※MS-13とは:北アメリカや中央アメリカ合衆国で活動するギャング集団でトランプ政権が摘発に力を入れている)。
ガン監督の言うとおり、スーパーマンは昔から移民を体現した存在として知られてきた。しかし2025年にそれを語れば保守派の怒りを買う。だがいつものように、映画そのものは周囲が大騒ぎで論争するほど政治的ではない。
映画の出来栄えは?
最後に、いくつかの映画のハイライトを紹介をする。
アクションは、迫力と滑らかさを兼ね備え、「最強かつ最速のヒーロー」にふさわしい出来栄えだ。
VFXも納得がいく内容で、よくデザインされている(ただし、巨大なドラゴンだけはやや非現実的で浮いている)。
メトロポリスの街並みは光り輝いているものの、あまり開発されていないようにも見える。これはスーパーマンの育った街そのものを描く映画ではないという表れだとも言える。完成した都市というよりは、どこかスケッチのような印象がある。
着色や細部の作り込みの余地はあるものの、『スーパーマン』は明らかに「一本の完成された映画」として成立している。制作が急ごしらえだった形跡や、未完成のCGI、話を無理やりつなぎあわせる無計画な撮り直しの痕跡はない。
むしろ本作は、素晴らしいスタートと見事なエンディングで締めくくられる、完成度の高い1本の映画に仕上がっている。
これが広大なシネマティック・ユニバースへとつながるのか、それとも再びリブートが必要となる失敗作になるのかはまだ分からない。
だがいずれにしても、ガン監督はこの作品単体でも十分楽しめるスーパーヒーロー映画を届けてくれた。それ自体が、続編、前日譚、クロスオーバーが溢れる今の時代において、奇跡的なことだ。
ハフポストUS版の記事を翻訳しました。


