第38回東京国際映画祭(TIFF)の「ウィメンズ・エンパワーメント」部門の一環として、11月3日にラウンドテーブル「女性映画祭の力」が開催された。
日本で今行われている国際女性映画祭は、「あいち国際女性映画祭」だけだが、世界には120以上の女性映画祭があるとされる。
「クィア」「移民」「帝国主義」など、「女性」のみならず、さまざまなテーマを交差させながら発展してきた女性映画祭の歴史とその意義とは。
イベントでは、日本、韓国、台湾の女性映画祭のプログラマーや研究者を招き、各映画祭の特色や共通する資金の問題、そして、東アジアの国々が連帯する上での、歴史との向き合い方についても議論が交わされた。
女性映画祭の意義「女性のイメージを自分たちで取り戻す」
ラウンドテーブルではまず、同志社大学教授でクィア・スタディーズや映画・視覚文化研究を専門とする菅野優香さんが、女性映画祭の歴史について解説した。
菅野優香さん菅野さんによると、今世界で行われている120以上の映画祭の多くは、60〜70年代のフェミニズム運動(ウーマン・リブ)が発端となった。女性映画祭誕生の背景には、「女性のイメージを生み出す大きな影響力のある映画産業から、女性たち自身が締め出されていたため、イメージを自分たちの手で取り戻しコントロールする」目的があり、「女性が企画・運営することが特徴」だと指摘した。
世界で初めて女性映画祭が開かれたのは1972年のニューヨークで、「制作・配給・上映・批評などが混然一体となったフェミニスト映画運動」が起きたという。アジアでは80年代から女性映画祭が始まり、93年に台湾、96年に愛知、97年にソウルと広がっていった。
映画祭の成り立ちとしては、ソウルと台湾は70年代以降の草の根のフェミニズム運動を理念として引き継いでいる。一方で、日本では90年代以降、地方自治体が女性映画祭を開催するようになり、あいち国際女性映画祭は男女共同参画事業の一環として開催されている、という違いもみられるという。
現在の世界の女性映画祭は「包摂と差異」を共存させており、菅野さんは「女性の中の、ジェンダー、セクシュアリティ、地域、年齢から成る差異に目を向けて、差異を前提とした上で女性というカテゴリーとその意味を拡張している真っ最中」だと説明した。
日韓台の女性映画祭の特徴
台湾国際女性映画祭のチン・エイインさんでは、各映画祭にはどんな特徴があるのだろうか。
台湾国際女性映画祭のプログラマー、チン・エイインさんによると、同映画祭は社会問題を扱うのが特徴。1987年まで38年にわたり続いた戒厳令が解除されてフェミニズム運動が活発化する中で、93年に誕生した。
「映画は社会の動きを反映するツール」という理念があり、時事問題や政治的情勢と関連する作品を選んできた。チンさんは、「女性という性別から映画を見ることと、社会のメインストリームから離れ、マイノリティの視点から映画を見ること。この2つをうまく結びつけたい」と話した。
あいち国際女性映画祭の木全純治さんは、登壇者の中で唯一の男性で、第1回からディレクターを務めてきた。同映画祭は、愛知県女性総合センターのオープニングイベントとして始まり、運営主体は、公益財団法人あいち男女共同参画財団だ。
ソウルのほか、フランスのクレテイユ国際女性映画祭などとも連携しており、木全さんは「映画界への女性の進出をサポートするのが主な目的」だと説明。シニア女性を中心に支持されてきたが、近年は若年層向けの施策も始め、男性の観客も増えているという。
あいち国際女性映画祭の木全純治さんソウル国際女性映画祭のキャッチフレーズは「女性の目で世界を見よう」。執行委員長兼プログラマーのファン・ヘリムさんは、「女性を、対象化された存在ではなく、主体的かつ立体的に描いた映画を紹介する場を設けたい」と語った。
初開催となった97年当時、韓国の女性映画監督は7人しかおらず、韓国初の女性監督パク・ナモクさんの「未亡人」がオープニング作品として上映された。
ソウルも、その時々の社会的、あるいは映画界固有のイシューを取り上げ、選挙がある年には「政治と女性」をテーマにした。「クィア・レインボー」部門を設けるなどもしており、「女性というカテゴリーを、社会的マイノリティまで拡大して考える必要がある」とも話した。
資金調達の難しさ。映画祭の役割は「コミュニティの強化」
3つの映画祭はコンペティション部門を設けているが、目的は「競争ではなく女性監督の発掘」だという。一方で、運営資金の調達では困難もあり、具体的な金額や資金源をもとに各国の状況について議論された。
あいちの木全さんは「第1回目は5400万円ほどの規模だったが、徐々に削減され、この10年は1700万円。今年は30周年で2700万円だった」と明かし、多様な資金源の確保が喫緊の課題だとした。
ソウルのファンさんによると、韓国でも、1990年代半ば頃から釜山や富川などで、地域産業活性化のために映画祭が開かれるようになった。「国と市の支援を受けて開催してきたが、5大映画祭の中で唯一、女性映画祭だけが毎年市の予算をもらっているわけではない」とし、財政面の不安定さを明かした。
ソウル国際女性映画祭のファン・ヘリムさん「予算は、ソウル市からは4億4000万ウォン(約4600万円)、(政府機関の)文化体育観光部の映画振興委員会から2億9000万ウォン(約3000万円)。それで全体のおよそ6割だが、毎年変わり、50%減った年もあります。その分は、後援のパートナー企業や会員のサポートがあります。開催から30年で、規模と予算を考えているタイミングです。フェミニズムをより深く取り上げるべきか、大衆に受け入れられる『フェスティバル』にすべきか。後者のほうが公的支援を受けやすいという側面もありますが…持続可能性が今一番の悩みです」(ファンさん)
台湾もソウルと同様に、政府と台北市から補助金を受けているが、資金は毎年変わるため、シエ・イーシュエンさんは、「現実的な条件と理想をどう擦り合わせるか苦悩している」と話した。
その一方で、上映数を減らしたが興行収入が増加した年もあったため、「規模を拡大すればいいわけでもない。より具体的なテーマにフォーカスし、ディテールにこだわることで宣伝しやすくもなる」と指摘。映画祭の役割は「観客と関係者が集まって共鳴できるコミュニティを強化すること」だとした。
「加害者対被害者」だけではない視点を
ソウルとあいちではすでに映画祭同士の連携が進んでおり、ソウルで上映された「強くなるとき」は、今年あいちやTIFFでも上映された。あいちの木全さんは「各国で映画の見方に違いがあり、多くの刺激をもらった」とし、ソウルのファンさんも「国や時代によって、女性はどう見られてきたのか。その違いを勉強できる」と述べた。
台湾は、これまで他国の映画祭と綿密な関わりがなかったというが、「(日韓台は)歴史的にも多くのものを共有してきたからこそ、映画の交流を通して理解を深めていける」とし、今後の連携に意欲を示した。

本イベントのディレクターと司会を務めた近藤香南子さんは、東アジアの女性映画祭の連帯について考える際に、日本が戦時下に、台湾と朝鮮半島を植民地支配した「加害の歴史」を無視できないとも言及した。
それに対し、台湾のジュオ・ティーンウーさんは、「女性解放運動の中で、フェミニストは、民衆を抑圧する政府に対する反抗として始まりました。女性映画祭やフェミニストが国境を超えて積極的に関わることは、抑圧・迫害を受ける人々への助けにもなり得る」と述べた。
また、ソウルのソン・シネさんは、「単に、国対国、加害者対被害者という構図で語るよりも、より大きな観点で帝国主義や侵略主義について話し合い、反省し、批判的に考える必要がある」と指摘した。
「多くの女性映画人が、帝国主義を考えるためにさまざまな観点でアプローチしてきた」とし、具体的な作品としては、ソウル女性国際映画祭への出品経験もある、在日朝鮮人2世の朴壽南(パク・スナム)さんと娘の麻衣さんが共同監督を務めたドキュメンタリー「よみがえる声」や、ソウルで暮らす元「慰安婦」の6人の女性を追った「ナヌムの家」などを紹介。その上で、「女性映画祭で、こうしたテーマを話し合うのは非常に意義があること」だと述べた。
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1985年に始まり、東京の名画座・岩波ホールの総支配人だった高野悦子さんがジェネラルプロデューサーを務めた「東京国際女性映画祭」(旧称:カネボウ国際女性映画週間)は、TIFFとの共催で開かれていたが、2012年に幕を閉じた。
その後10年あまり、女性に光を当てた映画祭は東京では開かれてこなかったが、TIFFの「ウィメンズ・エンパワーメント」部門が2024年に新設。同年のシンポジウム「女性監督は歩き続ける」は、若手からベテランまで幅広い世代の女性監督が登壇し、映画表現や制作環境について語り合った。
2回目となった今年は、日本のみならず、韓国や台湾の視点が加わり、映画祭と社会との関わりについて積極的に議論された。
トークの中では、「クィア」や「ディアスポラ」「移民」「帝国主義」などにも話題が広がり、世界で今開かれている女性映画祭が、女性だけではなく、抑圧された人々の視点をも掬い上げ、共有することができる場として、重要な役割を担っていることが示された。
(取材・文=若田悠希/ハフポスト)


