16世紀末から17世紀初めに活躍した劇作家ウィリアム・シェイクスピアの妻・アグネスを主人公にした映画「ハムネット」が、4月10日から日本でも公開されている。
映画タイトルの「ハムネット」は、シェイクスピアが戯曲「ハムレット」を書き上げる、約4年前に亡くなった実の息子の名前だ。当時、「ハムレット」と「ハムネット」は記録上ではほぼ同じ名前として扱われていたという。
本作は単なる歴史劇ではなく、「悪妻」というレッテルを貼られてきたアグネスを新たな視点から描き、ハムネットの死が夫婦の関係や「ハムレット」誕生にどう影響を与えたかに迫る。
監督は、「ノマドランド」で米アカデミー賞作品賞や監督賞を受賞したクロエ・ジャオさん。昨年11月、来日したジャオ監督に、制作の背景や、自身の創作の原点だという日本のアニメや漫画について聞いた。
【動画】「ハムネット」予告編
昨年11月、東京国際映画祭にあわせて来日したクロエ・ジャオ監督「夫の成功の邪魔」?シェイクスピアの妻アグネス
原作は、2020年に出版された、北アイルランドの作家マギー・オファーレルさんの同名小説。シェイクスピアの3人の子の中でも、末息子であるハムネットに関する記録は少ないが、当時11歳というその早すぎる死は、父と息子の物語である「ハムレット」の誕生に、影響を与えたのではないか──。執筆の背景には、そんな疑問があった。
オファーレルさんが史料を調べる中で違和感が覚えたのは、シェイクスピアの妻・アグネス(一般的にはアン・ハサウェイとして知られる)が、「8歳年下の天才をたぶらかした農婦」「夫の成功の邪魔をした」といった、「悪妻」のレッテルが貼られてきたことだ。オファーレルさんは、先入観を排し、アグネスの視点から、シェイクスピアとの恋や結婚生活、ハムネットの死、その後の2人の関係をフィクションとして描いた。小説はイギリス内だけで77万部のヒットとなり、英女性小説賞や全米批評家協会賞を受賞した。
映画では、1580年にイギリスの小さな村でアグネス(ジェシー・バックリーさん)とウィル(シェイクスピア/ポール・メスカルさん)が出会う。アグネスは、自然や動物の知識が豊かな人だが、それが故に地域の人々からは「魔女」とみなされていた。一方のウィルも、作家を目指しながらも、暴力を振るう父親や閉鎖的な社会に反抗心を抱えていた。
ジャオ監督は、オファーレルさんと共同で脚本を執筆し、原作にひかれた点をこう話す。
「アグネスは自然と繋がり、自分の直感を大事にしている人で、ウィルは新しいものを作る力がある、言葉の人。私たちはその両方の要素を持っていて、その内なる心象風景を描きたいと思いました」

「神のように振る舞って生きている」
シェイクスピアが生きたのは、今から400年以上前のことだが、「ハムネット」は、アグネスの視点で史実を再解釈することで時代を超える物語になっている。本作で描きたかったことについて、ジャオ監督は「Oneness(ワンネス)=一つであること」という言葉をあげて説明する。
「現代社会の問題は、私たちが自然と切り離されて生きていると思い込み、自分たちは自然より力があるのだと、神のように振る舞って生きているところだと思います。
痛みや死を恐れ、必死に抗うようになり、それが様々な社会の問題を引き起こし、個人のメンタルヘルスにも影響を及ぼしている。私は、映画を作ることで、他者や自然と分離して生きているという幻想を打ちくだいて、一つになる可能性を探っているのだと思います」
アグネスとウィルは、家族との間に不和があり、周囲の反対を押し切って結婚した。3人の子ども(その末っ子がハムネット)と暮らすが、ウィルは創作活動に打ち込み、成功のため単身ロンドンへと向かう。その後押しをしたアグネスは、ひとりで子どもを守ろうと奮闘するも、困難がたちはだかる。
映画では、ハムネットの死因は当時蔓延していたペストとされている。ウィルはロンドンから駆けつけるも、死に目には間に合わなかった。アグネスと2人の子が悲嘆に暮れる一方で、すぐにロンドンへと戻り創作活動に没頭する。
2人の距離が開いていく中、アグネスは、ウィルの新作戯曲のタイトルが息子の名前であることを知る。

「カタルシスが必要」ラスト5分は、ある1曲から生まれた
《以下、ネタバレには配慮していますが、映画の具体的な描写について言及しています》
映画の終盤に描かれるのは、ロンドンのグローブ座での「ハムレット」の初上演だ。アグネスは、ハムネットの名前を使ったウィルに怒りを覚え、ロンドンまでやってきたが、舞台に夢中になる中で、次第に感情が変わっていく。ラストシーンに込めた思いを、ジャオ監督はこう語る。
「ラストの5分は元々シナリオになく、2カ月に渡る撮影の最後の4日間で、ジェシー(・バックリー)が送ってくれたマックス・リヒターの『On the Nature of Daylight』を聴いて浮かんできたものです。当時、私は大切な人との別れがあり、喪失感を感じていました。その時にこの曲を車の中で聴いていて、外で降る雨に触れようと、自然に窓に手を伸ばしていました。
その時に、私も観客もシェイクスピアもアグネスもみな、大切なものを失うことが怖いけれど、すべてが一つだと感じられるのなら愛を喪失しないのだと気づきました。この映画には、カタルシスを感じられる結末が必要でした」
マックス・リヒターさんは、本作の音楽を手がけた作曲家で、近年では「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」「アド・アストラ」などの映画も担当。楽曲「On the Nature of Daylight」は既存作品だが、ジャオ監督とバックリーさんの勧めで「ハムネット」でも使用することになった。

さらに、観客が物語に没入できるよう、撮影や編集で「ハリウッド的ではない」手法を取り入れたという。
「私の映画では、スクリーンの中と外の境界をなるべくなくしたいと思っています。撮影でもシャープなレンズを使っていて、色調も調整せず、音楽も振動のような、無意識に訴えかけるものを使っています。メイクも、特殊効果が必要な時以外は薄めで、テイクの途中でもメイク直しをしません。この規模の映画だと、セリフをクリアに聞かせるようにサウンドミックスで直すことが多いですが、私は、そのハリウッド的なやり方はせず、ノイズが入っていても、できるだけ自然なまま使おうとしています」
「道徳的にグレーな部分も描く」日本の漫画・アニメからの影響
芸術はなぜ生まれるのか。人はどうして芸術を必要とするのか。人生で避けられない喪失や困難を、芸術へと変容させていく可能性を描いた映画「ハムネット」。シェイクスピアが残した戯曲「ハムレット」もまた、世界各地で繰り返し上演され、映画や音楽、美術など様々な形で表現されてきた。

ジャオ監督に、アグネスやウィルのように、芸術が救いとなった原体験について尋ねると、10代から好きな、日本の漫画やアニメについて教えてくれた。ジャオ監督は昨年、出版大手の講談社が自社の漫画や小説の実写映画化のためにハリウッドに設立したスタジオの最高クリエイティブ責任者に就いた。
1980年代に中国で生まれ、10代はイギリスやアメリカで過ごしたジャオ監督は、これまでに好きな作品として、「美少女戦士セーラームーン」や「攻殻機動隊」「SLAM DUNK」「幽☆遊☆白書」などを挙げてきた。
「私が最初に出合った物語が、日本の漫画とアニメでした。
日本の漫画やアニメが世界から認められ、求められるようになっているのは、東洋と西洋の文化の融合を体現しているから。日本の神道の考え方や、明治維新以降は西洋の文化の影響も受けている独特な文化なのだと思います。
漫画やアニメはいろいろな人間の感情、道徳的にはグレーな部分も描いているところに私は惹かれています。『エターナルズ』(マーベル・コミック原作のスーパーヒーロー映画、2021年公開)も、キャラクターの造形やストーリーボード、衣装など、あらゆるところで漫画やアニメで得た知識をいかして作りました」
(取材・文=若田悠希/ハフポスト日本版)
◾️作品情報
「ハムネット」
全国上映中
監督:クロエ・ジャオ
脚本:クロエ・ジャオ、マギー・オファーレル
製作:スティーヴン・スピルバーグ、サム・メンデス
出演:ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、エミリー・ワトソン、ジョー・アルウィン
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