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記者会見で代表辞任を表明したれいわ新選組の山本太郎代表記者会見で代表辞任を表明したれいわ新選組の山本太郎代表

山本太郎が政界を引退した。

2026年7月9日に開催された記者会見で、そう発表した。理由は、健康問題。

それを聞いて、ひとつの時代が終わったような、大きな喪失感の中にいる。

この原稿は、ただただそんな喪失感を分かち合える人と分かち合いたくて、書いた。

「なぜ〇〇について言及しないのだ」などという人もいるだろう。が、これは山本太郎について書く最後の原稿だ。いろんな偶然でその初当選から関わることになった人間が、最後に思い出を語ることを許してほしい。

私が山本太郎と出会ったのは12年。原発関係のイベントでのことだった。

それからすぐに選挙に立候補すると知り、脱原発デモ発祥の地・高円寺に構えられた選挙事務所や演説の場に応援に駆けつけた。

知名度抜群で反原発に前のめりな同世代。だけど前のめりすぎて危うさも見えた山本太郎を応援したいと思ったからだ。原発が水素爆発してから間もない当時、突如として市民運動の現場に現れた山本太郎は、多くの人にとって間違いなく「希望の星」だった。

しかし、12年12月の最初の選挙から波乱含みだったことを覚えている。

政治や選挙のど素人ゆえ、山本太郎には候補者調整などの発想が皆無だったからだ。そのことで選挙プロ界隈の人に怒られたらしく、「なんでみんな“選挙に出ろ出ろ”いうのに、ほんまに出たら怒るんやろ」とポカンとしていた。

それを聞いた時、この人は本当に一人で、周りでお膳立てやフォローするその道の玄人がいないまま活動しているのだと気がついた。

当時の私は反貧困の活動を始めて6年目。選挙については知らないことばかりだったけれど、国会とかその周辺について山本太郎よりは知識がある気がした。また、実際に山本太郎が議員になったらこれほど心強いことはない上、国会質問などで役に立てるという思いもあった。

しかし、12年12月の衆院選では落選。

そうして13年の参院選で、当選。

初当選の後、本格的に貧困問題のレクチャーをはじめ、多くの弁護士さんや支援者を紹介したのだが、驚いたのは、当時の山本太郎にはブレーンと呼べるような人がほぼいなかったこと(原発問題をレクチャーしてくれる人たちはいた)。

選挙中は多くの支持者に支えられていたのに、国会運営や多岐にわたるテーマの質疑についてのプロは皆無で、本当にわずかな人員(それもみんな素人)が手探りでやっているような状態だったのだ。

これはヤバいと本格的に質問作りなどに関わり始めたのだが、私にとってもそれが「国会」というものを知る大きなきっかけとなり、発見の連続だったことを覚えている。

さて、そんな山本太郎の13年の国会活動がどれほどハードなものだったのかはこの原稿で書いたので読んでほしいのだが、私には、常に「山本太郎は自分の人生を横において今、日本の政治をマシにするために身を粉にしている」という思いがあった。

引退会見後、SNSなどでは「いつまでもいると思うな山本太郎」という言葉をよく見かけたが、どこかでずっと「タイムリミット」は意識していた。

なぜなら、多くの人にとって政治家とは目指すべき名誉職で「高給」だが、山本太郎にとっては大幅な収入ダウンであり、俳優の仕事の方がおそらく魅力的だろう。よって自らの利益のために続ける意味はない。

そういうところも含めて政治家でいてほしい人だった。その上勉強熱心で、困っている人を見ると放っておけない。

しかし、政治家で居続けたいだけの人間にとって永田町の仕事は楽なものだろうが(何しろ国会に出席するだけでそれ以外は何もしない議員も大勢いる)、山本太郎にかかる負担はとてつもないものだった。

少数の党ゆえ質問回数はぶっちぎりで多く、それ以外にも声がかかればあらゆる現場に駆けつける。そうして全国を回っての街宣やデモ。れいわ新選組を立ち上げる以前でさえ、端から見ていても過労を極めていた。そんな生活を続けていたら、心身ともに悲鳴を上げるに決まっているのだ。

さて、書きたいエピソードはいろいろあるが、これまでどこにも書いていなかったことに触れよう。

山本太郎が年末年始、炊き出しの現場を回っていたことは有名だが、私はそれ以外の場で――打ち合わせや会合出席など、複数人で行動を共にした際など――信じられない光景を何度も目にしている。

それは歩いているだけで、やたらと「人助け」をしているということ。

例えば道端などでうずくまっている「ホームレス状態かな?」という人がいると、自然に声をかけ、炊き出しや支援団体の情報を教える。また、駅などで倒れた人がいればすかさず駆け寄って安全な場に避難させて駅員を呼ぶなどし、誰もが通り過ぎるような微妙な不調――少しふらついているなど――も見逃さず声をかける。 

一度、人でびっしりのエスカレーターで倒れかけた人がいて人の雪崩が起きそうになり、瞬間、その人を光の速さでキャッチ。同時に雪崩が起きないよう「こっちの列に来て!」など群衆の交通整理まで始めたから驚いた。そんな時、どんなに大声を出していても誰も山本太郎と気づかないのが不思議だった。 

また、知らない人に声をかけられ、ファンか支持者かと思っていると「〇年前、具合が悪くなった時に助けてもらった者です。その節はありがとうございました」なんてお礼を言われているところだったりもした。本人は覚えていないそうだが、駅や街で体調が悪くなった人を助けたらしい。しかも聞けば、芸能人時代。普通、芸能人は困っている人を見かけても身バレを恐れて声をかけないと思うが、率先して声をかけていた山本太郎。そんな「あの時助けてもらった〇〇です」に幾度か遭遇し、そのたびに「鶴の恩返し?」と驚いたものである。

とにかく、そういう人だった。そういう人だったからこそ、誰かが虐げられていたり、曲がったことが許せなかったのだろう。

山本太郎がいることで、これまで知らなかったことが白日の下に晒された。王様は裸だ! と名指す山本太郎の存在は、国会の中にいる多くの人にとって歓迎されないものだったろう。しかし、13年から25年までの13年間、国会にはこれまでにない緊張感が生まれた。そして山本太郎によって、全く政治に関心がない層の目は開かされた。

特に辛酸を舐めた年月が長く、「どうせ何をやっても変わらない」という冷笑がデフォルトになっていたロスジェネを、山本太郎の涙ながらの訴えが覚醒させた。そんな瞬間を何度も見た。

そしてれいわ新選組が立ち上がり、舩後靖彦さん、木村英子さんが立候補した時、全国の障害者やその家族はどれほど勇気づけられただろう。忘れられない光景をいくつも思い出す。

書きたいことは山ほどある。言いたいことも。そしてもちろん、さまざまな意見や批判があることも知っている。だけど今は、とてつもなく大きな存在を失ったことを噛み締めている段階だ。

もしかしたら政治を変えられるかもしれないと思えた13年間。

そして一人の人間が本気になればここまでできるということを証明した13年間。

もうあれほど、手に汗握って国会を見ることはないだろう。

山本太郎さん、本当にお疲れさまでした。

(2026年7月22日の雨宮処凛がゆく!掲載記事『第769回:山本太郎という政治家がいた、13年間。の巻(雨宮処凛)』より転載)

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