びわ湖ホール第2代芸術監督 沼尻竜典のラストイヤーは、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で終える事になった。
沼尻が初代芸術監督 若杉弘のあとを受けて芸術監督に就任したのは2007年。2008年にリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』で始まった「沼尻竜典プロデュースオペラ」は、2010年の『トリスタンとイゾルデ』以降、ワーグナーの作品を断続的に上演。2016年の『さまよえるオランダ人』以降は連続してワーグナー作品だけを上演し、来年の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でワーグナーの主要オペラ10作品の上演が完結する。7月に行われた制作発表の模様をご覧頂こう。
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 写真提供:びわ湖ホール
びわ湖ホール芸術監督 沼尻竜典
びわ湖ホール芸術監督を16年続けてきて、任期の最後に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を上演する運びとなりました。びわ湖ホールと云うと、『リング』全曲上演を評価頂きますが、単独の作品としては『マイスタージンガー』は『リング』四部作のどの作品よりも遥かに大作です。とにかく音符の数が多く、スコアの厚みは『マイスタージンガー』がいちばん厚いです。演出は『トゥーランドット』『オテロ』『ローエングリン』でもお世話になった粟國淳さん。芸術監督最後の『マイスタージンガー』の演出(ステージング)は、彼しかいないと決めていました。歌手は、日本人でワーグナーの歌唱法を身に付けた、おおよそいつものメンバーです。そこに韓国のスター級の歌手が2名加わります。主役のハンス・ザックスは青山貴さん。歌詞を覚えるだけでも大変だと思います。『リング』のヴォータンより大変じゃないかな。黒田博さんには、ベックメッサーをお願いしました。悪役ですが、黒田さんが得意とする格好良い悪役ではなく、人間の弱さが露呈した格好悪い役です。そこは、役者としての多様性や演技力で何とかしてくれるはず。
びわ湖ホール芸術監督 沼尻竜典 (C)H.isojima
まだまだコロナ禍ですので、『ローエングリン』や『パルジファル』同様、セミ・ステージ形式でお送りします。セミ・ステージでも中身の濃い舞台が出来ることは、この間実証して来たと思っています。オーケストラはこれまで同様、京都市交響楽団。このスタイルだから可能となる、ステージ上でクオリティの高い演奏を聴かせてくれると思います。
劇場にとって、ワーグナーが出来るか出来ないかは評価の一つの基準にもなると思います。『さまよえるオランダ人』は出来ても『リング』、『パルジファル』、『マイスタージンガー』になるとそう簡単にはいきません。これが可能となるキッカケとなった出来事がありました。2020年にコロナの影響で『リング』の「神々の黄昏」を急きょ、無観客による開催とし、公演の模様をYouTubeで配信した事です。入場料収入はゼロとなり、興行的には大変だったのですが、視聴数は41万アクセスを記録し、我々のオペラの知名度が上がりました。次は何をやるのか?誰が何の役をやるのか?一気にオペラファンの話題の中心になりました。お陰様で、菊池寛賞なども受賞しましたし、オペラのオンライン配信の先駆けとなりました。
びわ湖ホールプロデュースオペラ《ニーベルングの指環》『神々の黄昏』(無観客上演) 写真提供:びわ湖ホール
『リング』四部作をやったことで、周囲の注目を追い風に、「あと3つ、やったら?」という雰囲気が出てきたように思います。コロナによって、セミ・ステージの上演が基本となったことで、『マイスタージンガー』までの流れが可能になりました。スタッフ、出演者の素晴らしいチームワークと、ご支援頂く関係者の皆様、そして温かいご声援を頂いているファンの皆様のお力で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が上演出来ることは大きな喜びです。最後までどうぞよろしくお願い致します。
びわ湖ホール芸術監督 沼尻竜典 写真提供:びわ湖ホール
ハンスザックス役 青山貴(バリトン)
ハンス・ザックス役をやらせて頂きます、青山貴です。イタリアオペラが好きだった私を、自分とは無縁だと思っていたワーグナーの世界に導いてくださったのは、沼尻監督でした。
ハンス・ザックス役 青山貴(バリトン) (C)H.isojima
2013年に初めて『ワルキューレ』のヴォータン役を頂いてから10年目に『マイスタージンガー』のザックスをやらせて頂くことになりました。その間、2016年に『さまよえるオランダ人』そして2017年からは『リング』、2022年には『パルジファル』とワーグナーの主要なオペラで大切な役を仰せつかっております。
びわ湖ホールプロデュースオペラ《ニーベルングの指環》『ワルキューレ』(2018,3) 写真提供:びわ湖ホール
びわ湖ホールプロデュースオペラ《ニーベルングの指環》『ワルキューレ』(2018,3) 写真提供:びわ湖ホール
昨年、新国立劇場の『マイスタージンガー』にフリッツ・コートナー役で出演していました。本番の数日前に沼尻監督ご自身からメールを頂きまして、「ザックス役をよろしくお願いします」と書かれていて驚きました。実は、その少し前にびわ湖ホールから『マイスタージンガー』に出て欲しいとは聞いていましたが、何の役とは聞いていなかったので、てっきりフリッツ・コートナー役だと思い込んでいたのです。新国立劇場の舞台で、初めてザックス役に挑むトーマス・ヨハネス・マイヤーが涙を流しながら歌っているのを見て、ドイツ人にしか分からない特別な役なんだ。自分がこの役をやる事は一生ないだろうなぁと思っていたまさにその役です。
ザックスは出ずっぱりの歌いっぱなし。もう信じられないくらいの分量を歌います。その上、音楽的にもワーグナー作品の中でもダントツに難しいのではないでしょうか。例えば通常、転調する時はオーケストラから直前に信号が出るのですが、『マイスタージンガー』はザックスの歌から転調が始まったり。ワーグナーは『マイスタージンガー』だからという事で、敢えて難しいことをやらそうとしているのかと思ってしまいます。そんな事も有って、今回ほど迷ったことはないのですが、沼尻監督の「年齢的に今じゃないか!」という一言が、決め手となりました。
この会見の直前に全体のキャストを初めて知って、驚きました。豪華な出演者の中にあって、自分がザックスを果たして歌えるのか、歌っていいのか。ザックス役は人間性の大きさ、優しさ、そして威厳が求められます。自分の威厳がこの豪華なキャストに通じるとは思っていませんが、本番に向けて少しでも成長して行ければと思っています。来年3月の本番では、芸術を称える素晴らしいこの作品の成功をみんなで喜び合いたいと思います。
ハンス・ザックス役 青山貴(バリトン) 写真提供:びわ湖ホール
びわ湖ホール プロデューサー 村島美也子
基本的に沼尻マエストロが口にされた事は実現させたいと常に思っていますが、予算面から慎重に進めてきました。『リング』が話題になる中、『ローエングリン』のセミステージでの上演はすぐに決まりました。その先は、コロナの状況がどうなっているのかわかりませんが、セミ・ステージなら『パルジファル』『マイスタージンガー』の上演の可能性が見えたというのが本当でした。舞台上演では、きっと難しかったと思います。びわ湖ホールのオペラは、土、日でダブルキャストというのが基本のスタイルです。スター級のキャストを国内で二組集めるのは予算的にも、人材的にも不可能でした。セミ・ステージにすると、舞台費も助かり、シングルキャストでやれなくないので、実現の目途がたちました。皮肉な話ですが、コロナ禍なので「W10」が出来た、と言えますね。
そしてやはり、一つの劇場で10作品すべてを指揮されたのは、日本では沼尻マエストロだけというのは、大きな声で言っておきたいと思います。それと、青山貴さんの抜擢も、沼尻マエストロの慧眼だと思います。2013年、最初のヴォータンが青山さんの30歳半ばです。その若さでの抜擢は、びわ湖ホールだから出来たのではないでしょうか。最後まで沼尻マエストロをサポートして素晴らしい『マイスタージンガー』をお届けできればと思っています。
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 写真提供:びわ湖ホール
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール 写真提供:びわ湖ホール
取材・文=磯島浩彰